人生の相対性理論(8)


←前へ   目次目次   次へ⇒
HomeHome  

「絶対」だと決めてしまえば楽に生きられる?

 世の中で「絶対」と呼ばれているもの、考えられているものも、見方を変えれば相対的である……ということはよく分かります。しかし、私たちは日常生活の中でそんなことを意識してはいません。考えないほうが楽だからです。いちいち何かと比較しながら物事を決めていたら、時間がかかって仕方ありません。
 今日の昼飯は職場から歩いて5分の大衆食堂で650円の定食にするか、それともその先のコンビニで390円の弁当を買ってくるか……と悩むより、「月曜日は社員食堂でカレー」と決めておけば悩まずにすみます。
 昼飯を何にするかで悩むのが面倒だからルールを決めてしまうくらいのことであれば、人生が大きく壊れることはないでしょうし、そのルールを決めるのが自分自身であれば、いつでも変更は効きます。
 しかし、行動の基準を外から規定され、そのルールを絶対的なものだと認めてしまうと、人生が簡単に壊されることもあります。

 福島第一原発が大量の放射性物質をまき散らした2011年3月、私は福島県の川内村というところで暮らしていました。
 私と妻はテレビで原発が爆発するシーンを見てすぐに逃げましたが、1か月後には自宅周辺の汚染状況を把握できたので、敢えて全村避難している村に戻って生活を再開しました。
 そのとき、壊れた原発内で放射線測定をする仕事を続けている20代の青年と話をする機会がありました。
 勤めている会社の社員半数は原発爆発後に辞めていったそうです。その半数の社員のように会社を辞めることをせず、放射能汚染された原発敷地内で仕事を続けているのはなぜかと訊いてみました。何か使命感のようなものからなのか、と。
 彼の答えは実にあっさりしていました。「嫌だけれど、他に仕事がないから辞められないだけだ」というのです。
「今のいちばんの望みは、被曝線量が限度になると他の原発でも働けなくなるので、そうなる前に他の原発に異動できることだ」とも言っていました。
 何よりも驚いたのは、「この村に生まれた以上、原発関連で働くしかない。そうした運命は変えようがない。仕方がない」という言葉でした。
 まだ20代の若さでありながら、転職する気力もなければ、ましてや起業して自立するなどというのは「無理に決まっている」というのです。
 つまり彼は、原発が爆発するという異常事態が起きてもなお、自分が勤めている会社と自分との関係、自分が生まれた土地と自分の人生との関係を相対化できず、絶対的なものだと感じているわけです。
 おそらく、子供の頃は彼にも将来の夢があったでしょう。それがなぜそうなってしまったのか。
 これを読んでいる多くのかたがたは、その青年の考えは異常だと感じるでしょう。仕事を変えるとか、生まれた土地を離れて新天地を探すなんてことは人生においていくらでもありえることじゃないか。何をバカなことを言っているんだ……と。
 私もそう思うので、彼の言葉にショックを受けたのです。
 しかし、彼のような感じ方、考え方をしている人は、案外多いのです。因習の強い田舎にだけではなく、都会にもたくさんいると思います。

「空気」というやっかいな「絶対」

 大人になるにつれ「仕方がない」「これが運命だ」と諦めて、自分からは何もしなくなってしまう。人をそうさせてしまう風土や社会の空気、仕組み(システム)を「絶対化」させてしまう傾向は、都会より田舎に顕著だとは思います。
 田舎に生まれ育つと、自分が置かれた境遇を絶対視しやすくなるのでしょうか。
 2014年10月26日、福島県知事選挙が行われました。
 投票締切の夜7時、NHK総合テレビの定時ニュースは、番組開始と同時に画面上に内堀雅雄候補の当選確実テロップを出しました。それほどまでに、やる前から結果が完全に分かっていた選挙だったのです。
 内堀候補は当初から、前知事・佐藤雄平氏の「路線継承」を表明していました。
 福島第一原発が爆発したとき、佐藤雄平知事の下、福島県は、放射性物質が大量に漏れたことをいち早く知りながら、汚染された地域の自治体や住民になんの指示も出しませんでした。そういう隠蔽体質の県政をも「継承」するといっているように私には思えました。
 その「従来の路線で行く」という後継候補に、自民・民主(当時)相乗りどころか、社民党までが乗りました。
 結果、内堀候補の最終得票はおよそ49万票。次点候補が約13万票ですから4倍近い圧勝です。対立候補5人の得票を全部合わせても22万7000票で、内堀候補の半分にも及びませんでした。
 さらに驚いたのは、投票率が45%ちょっとで、過去2番目の低さだったことです。
 棄権するということは「どうにでもしてくれ」という意思表示といえます。あれだけのことを経験しながら「また何かあっても同様に対応してくれ」「勝手にやってくれ」というのでしょうか。
 共産党を除く全党相乗りの雷同ぶりに県民が白けて棄権したという解説をしている新聞もありましたが、根はもっとずっと深いでしょう。
 都会でしか暮らしたことのない人には想像できないかもしれませんが、田舎で暮らしていると、社会(環境)を構成しているのは個人ではなく、その土地を支配している「空気」である、という感覚が染み込んでいきます。
 絶対的に変わらない、変わりようがない「空気」があり、個人が何かしようとしても、できるのはその「空気」の中で許されることだけ
 この「空気」は、理屈ではなく、生まれてこの方ずっと吸い続けてきた空気であり、絶対的なもの。空気がなければ呼吸ができず、生きていけないのと同じくらい自明のこと。それをいちいち考えても仕方がない……となるわけです。
 多くの福島県民にとっては、県知事選で全党相乗りの候補以外に投票するという行動は、この「空気」の外にある行動で、「ありえない」ものだったのかもしれません。
 となると、選択肢は、今まで通り中央政権に最も近そうな人物に投票して少しでも金を持ってきてもらうか、もうおまえらは信用しないという意思表示のために投票に行かないかのどちらかしかない。その結果が投票率45%で相乗り候補の圧勝だったのでしょう。

 もちろん、これは田舎だけの現象ではありません。
 相対化の相手が人間や人間の作った規則などであれば、それは違う、これに照らし合わせて考えればもっといい答えがある……となりえますが、相手が「空気」では相対化しようがありません。いいとか悪いとか考えたところでしょうがない……。
 この「空気」こそが、いちばんやっかいな「絶対」かもしれません。

 絶対を認めることと、無関心・無関与は根が同じです。
 「空気」という言葉でごまかしていく先に待っているものに対して、私たちは責任を負わなければなりません。



←前へ   目次目次     次へ⇒
HomeHome
Facebook   Twitter   LINE

森トンカツ -たくき よしみつエッセイ集1 Kindle UnlimitedならKindle版は0円 ⇒こちら 紙の本もあり。