都市生活者が犯しやすい情報の絶対化
「フクシマ」*の話が出たついでに、都市生活者が陥りやすい情報や基準値の絶対化という問題についても触れておきます。
原発が爆発した直後からしばらくの間、「放射能汚染された福島にはもう住めない。それなのに子供と一緒に住んでいる親は無責任だ」とか、「危険なのに安全だと言って無理矢理住民を帰そうとしている政府は人殺しだ」といった批判をよく目にしましたが、それらの発信源は主に都会で暮らしている人たちでした。
こうした批判の一部は正しいのですが、一方的に発せられるそうした論に対して、福島県内で今も暮らしている多くの人たちは、迷惑この上ないと感じていました。
放射性物質がばらまかれたのですから、それ以前よりも危険が増したことは間違いありません。しかし、人が生きていく上で、危険や困難はたくさんあります。
うっすら汚染された場所で生活を続けていく危険より、家族がバラバラになったり、収入が途絶えたり、生き甲斐をなくしたりすることによる危険、あるいは不幸になる度合や加速度のほうがはるかに大きいと判断することは間違いではありません。
いわゆる「年間20ミリシーベルト論争」なども、数値を絶対化してしまうことから生じる対立といえるかもしれません。
20ミリシーベルト論争のことを少しだけ解説しておきます。
日本には「放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律」というものがあり、そこで「人が放射線の不必要な被ばくを防ぐため、放射線量が一定以上ある場所を明確に区域し人の不必要な立ち入りを防止するために設けられる区域」として「放射線管理区域」というものを定めています。
その条件の一つに「外部放射線量が3か月あたりで1.3mSv」というのがあります。3か月で1.3mSvということは年間で5.2mSvであり、1時間あたりにすれば0.6μSvになります。
ところが、福島第一原発が壊れて大量の放射性物質を環境中にばらまいてしまった後は、暫定基準としつつも、年間20mSvまでは健康被害はないと考える、ということにしてしまいました。
これに対して、「とんでもない話だ」という人たちと「ヒステリックに騒ぐのは愚かだ。冷静になれ」という人たちが真っ向から対立し、議論も噛み合いませんでした。
20mSvという数値のことでいえば、安全か危険かということ以前に、都合が悪くなったので一気に基準を引き上げるという姿勢がまずダメです。
なぜこんなことになってしまったのか、責任は誰にあるのか、そうなってしまった以上、これからどうするべきなのかという話が全部棚上げ、無視されたままで「20mSvで大丈夫です」と、そこだけはさっさと決めてしまう。そうした不誠実さがまずは追及されるべきです。
また、「大丈夫」派は「チェルノブイリに比べれば放出された放射性物質はずっと少ない」という言い方をしますが、これは一見、チェルノブイリ事故との相対化をしているようでいて、実際には
チェルノブイリ事故の数値を絶対化して、「あれに比べれば……」という論法に持ち込んでいます。
チェルノブイリも「フクシマ」も、放出された放射性物質の絶対量や汚染された土地の面積規模が問題の本質ではありません。
そういう事態に至らせた人間側の問題、社会やシステムの欠陥を見ていかなければ何の解決にもなりません。