人生の相対性理論(6)


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■  §2 「絶対」を疑う

 ここまでおつきあいいただいたてありがとうございます。
 §1では、「人生という時間線分」などという話を展開しましたが、中高年のかたには実感として受け入れられても、若い人たちにはいまひとつピンとこなかったかもしれません。
 また、「こいつはかっこつけて『人生の相対性理論』とかたいそうなことをぶち上げているけれど、それって、ただの言葉遊びにすぎないんじゃないの?」と感じているかたもいらっしゃるかと思います。
 私も、単なる言葉遊びや論理ゲームに陥ることは最も避けなければならないと思っていますので、ここで少し話を戻して、「相対性」という言葉について、改めて考えてみましょう。ますます言葉遊びだと思われるかもしれませんが、意外な落とし穴を見つけられるかもしれません。

「絶対」という言葉の呪縛

 「相対」の反意語は「絶対」です。
 他と関連させてみて、初めてその存在や意味が考えられることが「相対性」の定義なら、「絶対性」とはその逆で、「他のものには関係なく、そのもの単独の存在に意味がある」「他と比較するまでもなく価値がある」「他の存在とは関係なく意味がある」ということになります。
 さて、そういうものが世の中にどれだけ存在しているでしょうか?
 ここでは、「生きるためには水と酸素は絶対に必要だ」とか「人は必ず死ぬ」といった物理学的、生物学的な「絶対性」はとりあえず置いておき、社会通念や一般常識といったものの中にある「絶対」を考えてみます。
 例えば「人を殺してはいけない」というルールは、人間が社会生活をして行く上で絶対的なルールだと思っている人は多いでしょうが、実際には法律によって死刑が執行されたり、平和維持の名のもとに他国の町に爆弾が投下されたりすることは毎日起きています。
 多くの宗教(あるいはひとつの宗教の中で派生、分裂していった「宗派」)は、自らの教義こそが絶対、完全であると主張して譲らないがゆえに、他の宗教・宗派を攻撃し、ときには宗教戦争にまで発展します。
 宗教だけでなく、哲学も「愛」を基本理念にしたものが多いですが、そもそも「愛」とはなんでしょうか。
 「愛こそすべて」「必ず愛は勝つ」なんていう歌が山のようにありますが、若いときに愛だと思っていたものが、歳を取って振り返ってみれば単なる錯覚・幻想だった、あるいは、性欲をきれいに言い換えたものだったとしか思えない、ということは誰もが経験することです。
 美味い・不味い、美しい・醜い、気持ちいい・気持ち悪い、かっこいい・ダサい……人間が感じるほとんどの価値観は時間や状況によってコロコロ変わりますから、「絶対的」ではありません。あれよりこれのほうが美味い(不味い)、かっこいい(ダサい)……という、比較するものがあって初めて生じる相対的な価値です。

絶対音感と相対音感

 「絶対」と名づけられたものが絶対ではないという例として、「絶対音感」と「相対音感」の話をしてみます。
 「音感」は、音の周波数という物理的な定義に関するものでありながら、音楽という計測しづらい価値観、人間の感情や感性に関するものなので、よい例となると思います。
 「絶対音感(absolute pitch)」は「ある音(純音および楽音)を単独に聴いたときに、その音の高さ(音高)を記憶に基づいて絶対的に認識する能力」のことです。
 しかし、一般には、聞こえてくる音を「ド」だ「レ」だと言い当てる能力のことだと思われています。
 え? 何が違うの? と疑問に思ったかもしれませんが、違うのです。
 ドレミ……は「音階」を表しますが、イロハやABCで表す「音名」や「調」を表してはいません。そもそもハ長調とかAマイナーといった「調」は、基準音の周波数を決めなければ定義できません。現代ではA=440Hzという調律がよく使われますが、Aの音(ハ長調の「ラ」の音)を440Hzにしようと決めたのはごく最近のことです。1917年にアメリカの音楽協会がA=440Hzを決めて、その後、1953年にISO(国際標準)が正式にひとつの基準として認定しました。
 それ以前のクラシック音楽の歴史を遡れば、A=440Hzというチューニングはむしろ異端で、時代によってもっと高かったり低かったりしました。
 ヘンデルが使った音叉はA=422.5Hzで、ベートーベンの時代にはA=433Hzまで上がったといわれています。
 ピアノの名門・スタインウェイ社は、一時期、A=435Hz~460Hzまで、何種類ものピアノを作っていました。
 つまり、絶対音感と呼ばれる音感の「絶対性」は、基準点をどこに決めるかで変わってしまうのです。
 A=440Hzを「絶対」だと感じる絶対音感であれば、ヘンデルやベートーベンの時代の演奏は調律が低すぎて気持ち悪い、あるいは「調が違う」ということになります。A=440Hzで調律したとき、半音下のG#は415.3Hzですから、例えばA=415Hzでチューニングした楽器でヘ長調(Fメジャー)の『チューリップ』を演奏すれば、A=440Hzでの絶対音感の持ち主にはヘ長調ではなくホ長調(Eメジャー)に聞こえます。
 ということは、ヘンデルやベートーベンの時代には、今の時代でいわれている「絶対音感」などという概念は存在していなかったのではないでしょうか。

 彼らが持っていたのは、ある基準音からどれだけ音程が離れているかを瞬時に認識できる「相対音感」であったと思われます。
 メロディというものは、音の絶対的な高さには関係なく、音の「並び方」によって作られるものであり、それは相互の音の位置関係、つまり「相対関係」で決まります。
 ですから、音楽的に重要な音感は、個々の音の高さ(周波数)を言い当てられる絶対音感ではなく、どんな調(キー)でもメロディの構造が把握できる「相対音感」なのです。
 相対音感を持つ人にとっては、A=440Hzだろうが415Hzだろうが関係ありません。それでいこうと決めたら楽器をその高さに合わせてチューニングするだけのことで、メロディや和音が変わるわけではないのです。
 もちろん、チューニングの高低によって、楽器や声が奏でる音の響きは違ってきますが、メロディは変わりません。
 ドレミ……は音の高さを表す「音名」(イロハニホヘトやABCDEFG)ではなく、「階名」ですから、例えば『チューリップ』のメロディをハ長調で演奏しようがヘ長調で演奏しようが、同じ「ドレミ ドレミ ソミレドレミレ……」です。
 日本では音名もドレミでいう「固定ド」音楽教育が幅を効かせているため、混乱が深まるのです。

 絶対音感というものが何かすごいものだという思いこみは、「絶対」という言葉の持つ響きによるところが大きいのだと思います。
 ですから「絶対音感」ではなく、「固定音感」とでも呼ぶべきものでしょう。

 この話はクラシック音楽界にいる人たちには極めて不快に聞こえるでしょうが、この例で私が言いたかったことは次の3点です。

①世の中で「絶対」といわれているものも、実際にはいい加減で、相対的な問題を抱えている。
②「相対性」を考えるときには、「基準点」をどこに決めるかが重要である。
③「基準」は「絶対」ではない。いくらでも変更できる。



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