「人間史」を見つめ直す(22)

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ペリー来航前の日本


イシモリ:  ではいよいよ幕末の日本で何が起きていたのか。そのとき誰がどのように考え、どう動いたのかをしっかり検証していこう。

 最初に、ペリー来航前に起きた主な外国、外国人関連の事件を並べてみるよ。


凡太: ペリーの来航前にもいろいろあったんですね。アメリカの捕鯨船関連が多いのが意外です。

マンハッタン号とクーパー船長

イシ: 当時、鯨油は機械の潤滑油や蝋燭の原料として需要があったから、アメリカから多くの捕鯨船が長期航海で太平洋に出て行っていたんだ。
 1845年にマンハッタン号が日本の遭難船2隻の乗組員を救助して送り届けたいきさつなんかは、映画にしてもいいほどドラマチックだった。
 偶然、22人もの日本人漂流船員を救助することになって、本来の捕鯨を中断してまでわざわざ日本に送り届けようとしたクーパー船長が、まずすごいよね。
 マンハッタン号の乗組員は22人で、救助した日本人も22人。捕鯨船の中は一気に混雑したはずだ。
 22人の乗組員の中には、大工、鍛冶、桶職などの技術者もいて、救助した日本人船員の気持ちを和ませようとしてか、毎晩三味線のような楽器(バンジョーかギター?)をかき鳴らし、踊ったりしていたそうだ。
 おかげで救助された日本人たちも打ち解けて、伊勢音頭を踊ったところ、乗組員たちも大いに喜んで笑っていた。救助された22人の中には、「勝」という11歳の少年も含まれていて、その子がまっ先に乗組員たちと仲よくなった……と、救助された日本人船員の報告が残っている。
 クーパー船長は、日本では遭難した日本人さえ容易に受け入れないことを知っていた。だからボートに漂流船員を二人乗せてまず上陸させて、敵意がないこと、漂流船員を届けに来ただけだということを慎重に伝えた。
 報告を受けた江戸詰めの浦賀奉行・土岐丹波守は「どこの船かは分からないが、とにかく鯨漁船であり、異国の漁民が他国の漂流民を助けようと自分の仕事を止めてまで誠意をもって送って来たのに、浦賀で受け取らず長崎へ回れというのは、自国の人民を捨てるも同様であります」と、何度も幕府に訴えた。
 しかし、老中首座になったばかりの阿部正弘は即断できず、勘定奉行や大目付らに協議させ、相当な時間をかけてようやく浦賀で受け入れることを決めた。
 その間、たまたまマンハッタン号が潮に流されて外洋に出てしまって、戻ってくるのに時間がかかったのが幸運だった。幕府がウダウダ議論しているときに浦和に近づいていたら砲撃されていたかもしれないね。

 そんなこんなでいろいろあったけれど、最終的には22人の日本人船員全員が無事に帰国できた。
 日本側からは白米20俵、小麦粉2斗、ニンジン200本、鶏50羽、中皿20人前、金入切子などの品々、薩摩芋1俵、大平目2枚、水300荷、上搗麦(つきむぎ)20俵、大根1000本、松真木200本、上吸物椀10人前、茶漬茶碗21人前、茶5斤、大蛸1杯、杉材木4本、から藁10把が無償で提供された。
 その際、幕府からのオランダ語で書かれた書状も渡された。そこにはこう書いてあった。
「遭難者を通じ口伝えに耳に届いたが、我が国の遭難者がこの船で届けられ、船上では親切に待遇されたという事である。支那とオランダを除き、遭難者は如何なる外国を経由しても受取らない事が我が国の法である。しかし、恐らくこの法を知らぬために遭難者を送って来たと思われるので、今回だけは受取る。次からは絶対に受け取らず、送ってきても厳罰を以て罰する。よくこれを理解した上で、他国にも知らすべし。 長い航海において船の食料、薪、水が底をついたということなので、これらを与える。 この諭書の命により、船は早速出帆し、近海にとどまらず、まっすぐに帰国すべし。」


凡太: 現場の役人は精一杯感謝の気持ちを伝えたのに、幕府の対応はガッカリですね。

イシ: よほど異国船が近づくことが怖かったんだろうね。それにしても、クーパー船長、男前だよね。
 彼は後にこのときの経験を書簡にしてペリーにも伝えている。

日本に憧れたマクドナルド青年

 さらに興味深いのは、ラナルド・マクドナルド(1824-1894)という青年が、まったくの個人的判断で単身密入国してきた事件だ。
 どんどん話が脱線するかもしれないけれど、とても興味深いので紹介しておこう。

 マクドナルドは、英領カナダ時代のアストリア砦(現オレゴン州アストリア)という所で、スコットランド人の父親と現地のアメリカ先住民チヌーク族の部族長の娘との間に生まれた。このように西洋人とアメリカ原住民の間に生まれた子は「メティ」と呼ばれ、差別を受けることも多かった。
 原住民の母親はマクドナルドを産んですぐに死んでしまったため、一時、母方の叔母に預けられたんだけれど、原住民の親戚から自分たちの先祖は日本人だと教えられたらしい。
 混血で容貌も西洋人と異なっていたため、日本という国への興味が膨らんで、ついには捕鯨船の船員となって出港する。
 船が蝦夷地に近づいたとき、単身、ボートで密航を企て、利尻島に上陸。そこでアイヌ人と10日ほど過ごした後、捕縛されて松前~長崎と移された。
 長崎では長崎奉行井戸覚弘の下に取り調べを受けて、寺に収監されるんだけれど、井戸はマクドナルドがネイティブの英語を話すことを知って、配下のオランダ語通訳14人を彼につけて英語を学ばせることにした。その14人の中でいちばん優秀だったのが、後にペリー来航のときに通訳を務め、江戸に英語塾を開いた森山栄之助という人物。
 マクドナルドはわずか1年の滞在で、翌年、長崎に入港したアメリカ船プレブル号に引き渡されてアメリカに連れ戻されるんだけど、短い期間ではあっても、日本のオランダ語通訳や、幽閉されていた寺で僧侶や医者などと交流することで、日本に対する興味と親愛の情をますます深めていったようだね。
 帰国後も、日本人は自然を愛し、誠実で純粋だと紹介し、キリスト教信者は異教を不完全で野蛮なものだとしているが本当だろうかと問いかけてもいる。
 日本人に英語の発音を教えるにあたっては、「発音できない子音がある、子音のあとに母音が混ざる、LとRが正しく発音できない」など、今も日本人が英語を学ぶ際の弱点をしっかり指摘する一方で、日本語の単語にアメリカ先住民の言語に通じるものを感じ取って、親近感を覚えていたようだ。
ラナルド・マクドナルド (THE CANADIAN より



 こうした青年を幽閉し、すぐに追放してしまったのは実に惜しいよね。
 マクドナルドはアメリカ政府ともイギリス政府とも関係なく、純粋に個人的な熱意と夢を抱いて、命をかけて日本にやって来た。幕府が彼を正式に通訳として雇っていたら、どれだけの力になったことか。通訳に留まらず、外国との交渉のアドバイザー役も務めてくれたかもしれない。
 70歳で生涯を閉じたマクドナルドの最後の言葉は「Sayonara my dear, sayonara」だったと伝えられており、彼の墓にも「SAYONARA]という文字が刻まれている。本当に惜しい人材を追い返してしまったんだね。
マクドナルドの墓には「SAYONARA」の文字が刻まれている

優秀な人材を生かせず、殺してしまった幕府

 徳川幕府は日本に親近感を抱いてやってきた有能な外国人を生かせなかっただけでなく、国内の優秀な人材をことごとく死なせてしまっている
 1839年のいわゆる「蛮社の獄」では、渡辺崋山、高野長英ら、蘭学や海外事情に通じていた優秀な人材を何人も死に追いやっている。
 渡辺崋山は蟄居を命じられて田原に護送された後、自害(没年齢満48歳)。高野長英は終身刑を言い渡され、脱獄して全国を逃亡していたが、江戸の自宅にいるところを奉行所の捕吏らに急襲され殺された(46歳)。
 崋山、長英らと親交があり、尚歯会という学者・技術者らが集まる勉強会にも参加していた幕府の天文方通訳の小関三英は、崋山・長英の逮捕を知り、自分も罰せられると思い込んで自害(51歳)。
 他にも崋山らを支えていた優秀な町人や僧侶たちの多くが獄中死している。
 日本が大変な難局を迎えているときに、一体どれだけの優秀な頭脳が生かされずに失われてしまったことか

 ちなみに「蛮社」というのは蘭学嫌いの国学者などが「南蛮の学問を学んでいる連中の集団」という意味で使った言葉で、かなりバイアスのかかった呼称だな。

凡太: そうした悲劇も、鎖国と保守主義の弊害ですね。

イシ: 石頭というか、思考硬直の武闘派や自分の出世と保身しか考えない連中が上層部に巣くっているとこういうことになってしまう。背景には、進歩的な考えを持ち、知識欲も旺盛で勉学に励む学者や官僚に対してのコンプレックスや嫉妬、怨嗟があったことは間違いないね。いわゆる国難の時期には、なぜかこういう無能で我欲ばかり強い連中が取り返しのつかない蛮行をする傾向があるように思うよ。そういう役人や軍人の集団こそが文字通りの「蛮社」だろうにね。

 ただ、ここで注目したいのは、ほとんどの役人はお上の命令に忠実に従って、異国船を追い払ったり、漂流民を長崎に送ったりしているだけで、実際に外国人を前にしたときの扱いは決して粗暴ではなかったということだね。クーパーもマクドナルドも、日本の役人との接触は終始友好的だったと書いている。
 このへんがまたもどかしいところでね。一人一人の気持ちと、お上からの命令がせめぎ合っているとでもいうのかな。個人の素養や人柄がうまく生かせてない場面がいっぱいあったと思うんだよね。裁量権を持つ人が石頭だと、現場で直接動いている人たちの本来の力量が発揮できない

凡太: その頃の将軍は誰でしたっけ?

イシ: 12代・徳川家慶だね。かなり高圧的な政治をする人で、当初、老中・水野忠邦を重用して天保の改革をさせていたけれど、忠邦が失脚してからは、老中・阿部正弘らを重用していた。
 家慶は、ペリーが最初の浦賀来航をした1853年に心不全で死んだ。

 では、ペリー来航までの出来事のまとめを続けるよ。


中島三郎助(1821-1869)

江戸幕府浦賀奉行所与力。嘉永6(1853)年、最初のペリー来航のとき、副奉行と称して通詞の堀達之助を連れてアメリカの旗艦「サスケハナ」に乗り込み、怪しまれながらも船体構造や搭載している武器などを調査。老中・阿部正弘に国産軍艦の建造、蒸気船を含む艦隊の設置を進言。阿部はすぐに受け入れ、従来の武家諸法度による大名の大型船建造禁止を解き、浦賀で西洋式の船の建造を開始させる。中島はそれを指揮し、わずか8か月後には日本初の洋式大型帆船「鳳凰丸」を完成させた。
戊辰戦争では病身をおして海軍副総裁・榎本武揚らと共にして箱館戦争まで戦い抜き、戦死。満48歳没。

日本初の洋式大型帆船「鳳凰丸」。軍艦として作られたが、蒸気船ではなかったため、輸送船として使われた
凡太: ペリーがやって来たときの日本のキーマンは将軍ではなく、老中の阿部正弘だったんですね。

イシ: そうだね。阿部正弘は相当悩んだと思うよ。
 実際、譜代大名だけでなく、外様も含めて各大名、さらには旗本や幕政に関係のない民間人にまで広く外交に対する意見を求めたという。マンハッタン号のときと同じで、自分でバシッと決められない人なんだねえ。
 これが幕府の権威を下げる結果となったと分析する人たちもいるけれど、見方を変えれば、幕府の専制政治から、身分の違いなく様々な意見に耳を貸し、よい提案は取り入れていこうという合議制政治への最初の転換点を作ったともいえるよね。ただの旗本だった岩瀬忠震(ただなり)を外国奉行に抜擢したことなどは、高く評価されていいね。
 阿部正弘という人は優柔不断で多くの失敗もしているけれど、ゴリゴリの武闘派とかではなかったと思う。大政奉還後の小御所会議で、徳川がいない場での議論はおかしいと言った山内容堂らに対して、「短刀一本あれば片が付く」と言った西郷隆盛なんかよりは、ずっとまともではあると思うよ。

ペリーは日本の開国に失敗していた

 で、日本側の「1年待ってくれ」という返答で一旦は引き上げたペリーだったが、1年も経たない半年後に再びやってきた。今度は9隻の大艦隊。なんだかんだの押し問答の末、横浜に急遽作られた応接所で日米会談が行われた。
 このとき阿部正弘からの依頼で日本側の代表として論陣を張ったのが林復斎(はやしふくさい)という儒学者。蛮社の獄の黒幕といわれる鳥居耀蔵の弟だ。
 林は当時の国際情勢もかなり理解していたため、今まで通りの鎖国を続けることは不可能だと分かっていた。そこで、前回の来航時にアメリカ側から示された薪水食料などの給与と漂流民の救助は承諾するが、交易については国法で禁じられているので応じられないと断固拒否した。
 ペリーとの議論は漢文を通して行われた。ペリーは交易を認めるように食い下がったが、林に「あなたは人命第一というが、人命と交易は直接関係がない」と論破されてしまい、最後は諦めた。
 そこで、ペリーは「では、薪水給与のため長崎以外に港を開港せよ」と要求したが、これも林は、前回の来航時にそのような要求はなかった」と突っぱねた。  最終的には下田と函館を追加で開港することになったが、それもアメリカ船に薪水等を与えるための港で、貿易はしない。外国人の行動範囲も港から7里(28km)以内に限るとした。

凡太: 林さんは江戸の論破王ですね。

イシ: うん。思想的には融通が効かないガチガチの保守派だったのかもしれないけれど、肝っ玉は大したものだよね。異国の大男たちを前に一歩も引かなかったんだから。
 ペリーは「これは祝砲だ」と言って、大砲から空砲を何発もぶっ放して自分たちの武力を誇示したんだけれど、そういう脅しにもまったく動じなかった。
 結局、ペリーは二度の来航をして、横浜でようやく結んだ「日米和親条約(横浜条約)」は、単なるアメリカ船への物資補給と船員の人命救助に関する協定であって、当初の目的であった交易は果たせなかった。完全な失敗だね。
 私たちは学校で、ペリーの来航で日本がビビって開国した、みたいな印象を植えつけられているけれど、事実はだいぶ違うんだよ。

 ペリーは横浜から引き上げた帰国の途上で琉球王国に再度立ち寄り、琉球とは通商条約を結んでいる。
 ペリーは帰国後の1858年に63歳で死去。その後、アメリカは南北戦争に突入して、日本との交易どころではなくなってしまった。

 アメリカが苦労して門をこじ開けた日本に、その後、イギリス、フランス、ロシアがうまく入り込んできたわけで、なんとも皮肉だね。


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