なんちゃって宗教哲学(4) 宗教と社会常識


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宗教が「社会常識」になるとき

 すでに述べたように、人類史上最初の宗教は「創作宗教」だった。
 誰かが考えたことを元にして、複数の人間がその後「改作」「補作」を続けた結果、広まっていった。
 ある創作宗教が一定の社会で定着すると、その社会の構成員は、信仰するという意識を超えて、もはやそれ以外の思考体系や価値観は考えられない、疑いようのないものとして一生身につける。
 つまり、宗教や信仰というよりも、一つの「社会常識」になる。
 アメリカ合衆国の大統領就任式では、新大統領が聖書の上に手を置いて宣誓するのが慣例だが、あれはキリスト教が宗教を超えて「社会常識」になったことを表している。
(例外として、セオドア・ルーズベルトは聖書を使用せず、クインシー・アダムズとフランクリン・ピアスは「憲法に誓う」ということで合衆国の法律書を用いたとも言われている)

 もちろん、アメリカ人社会でキリスト教がすべての国民の「常識」になったとはいえない。イスラム教徒や仏教徒、さらには無宗教者も存在するが、彼らは大統領就任式の形式にいちいち文句を付けるようなことはしない。文句を付けても仕方のないことだと考えているからだ。
 同様に、ヒンズー教徒の多いインドで牛を神聖視して食べないとか、イスラム教徒の多い中東諸国やアフガニスタンなどで、女性がヒジャブ、ブルカ、ニカブといった布で髪や顔、身体全体を覆うことなどは、その宗教の影響を受けていない人々からすれば合理的な説明がつかない。しかし、合理的な説明がつかなくても、いちいちクレームを付けるようなことはあまりしない。
 女性の権利侵害だとして声を上げる人たちはいるが、そうした声は、対象となるイスラム教徒の女性たちが、自分たちが宗教の犠牲者だと考えない限り届くことはない。
 つまり、特定の社会において宗教が「社会常識」になることは珍しくない
 言い換えれば、ある社会の構成員たちは、多分に宗教的なことがらであっても「社会常識」だと認識し、疑いを持たなくなっている。

宗教 vs 科学

 人類が多くの科学的知見を得るようになると、古くからの創作宗教的価値観や世界観に対して疑義を唱える者が現れ、大きな勢力として定着した。
 現代では、物理法則に矛盾することや説明不能なことを主張する宗教は危険視される傾向が強まっている。
 例えば、教祖が空中浮遊するとか、死者の魂を呼び寄せるといった話は「非科学的」なことであり、それを信じさせる宗教は危険な洗脳行為をしていると見なされる。
 しかし、科学で説明できる世界(物理世界)のみを認め、その世界の中での生き方を教えるのであれば、それは道徳や修練といったものであり、わざわざ「宗教」と呼ぶ必要はないはずだ。
 多くの宗教には、全知全能の神がいて、その神がこの世界を作ったというような教義が存在する。これは科学や物理法則では説明不能なことだ。
 旧約聖書の「出エジプト記」に書かれているモーセ(モーゼ)が海を真っ二つにしてユダヤ人たちを先導し、追ってくるエジプト軍から逃れたという話なども、科学の立場からは「作り話」であって事実ではないということになる。
 キリスト教は「創作宗教」の代表のような世界宗教だから、モーセが行った奇跡が歴史的事実かどうかといった論争はあまり意味がない。宗教というのはそういうものなのだから、そんなことでムキになるのは馬鹿らしいと、キリスト教信者も非信者もとらえている。

カルトではない宗教はない

 問題は、宗教が人間社会の平和的な維持にとって害となるかどうか、ということだ。
 現代では、社会の秩序を乱し、多くの人に被害を与えるような宗教を「カルト」などと呼んで警戒するが、カルトという言葉はもともとは「儀礼」や「祭祀」といった意味であり、善悪のニュアンスは含んでいなかった。ほとんどの宗教には儀礼、祭祀的要素があるので、カルトではない宗教などない、といってもいいだろう。カルト的要素がまったくないのであれば、それは宗教というよりは哲学や文学に近い。
 そうした本来の意味からは離れ、現代でいう「カルト宗教」とは、「伝統的・正統的でない宗教」「カリスマ的な指導者が信者を危険な思想・行動に扇動する宗教団体」のことである、といった説明がされるが、それもまたおかしな話だ。
 「伝統的・正統的でない宗教」というが、「伝統的・正統的」宗教とはなんなのか。信者の数や地理的な伝播範囲のことならば、新興宗教は出発時点ではすべて「カルト団体」ということになる。
 「カリスマ的な指導者が信者を危険な思想・行動に扇動する宗教団体」という説明にしても、危険な思想とはどういうものなのか、危険とは何を基準にして危険というのかが不明瞭だ。
 例えば、前述の旧約聖書出エジプト記などは、実に生臭く、残酷な要素が多く含まれている。
 モーセは神から「エジプトにいるヘブライ人(イスラエル人、ユダヤ人)を約束の地・カナンへと逃がせ」といわれ、遂行しようとするが、エジプトの王(ファラオ)はそれを許さない。そこで、神に「10の災害」をエジプトにもたらしてもらう。
 その10の災害とは、
  1. ナイル川の水を血に変えて魚を殺し、水を飲めなくする
  2. カエルの異常発生
  3. ブヨの異常発生
  4. 虻の異常発生
  5. 疫病を流行らせ家畜を殺す
  6. 膿の出る腫物を流行らせる
  7. 雹を降らせ作物を全滅させる
  8. イナゴの大量発生
  9. 3日間エジプト中を暗闇で覆う
  10. 家畜を含め長子をすべて殺す
 ……というもので、現代風にいえば、大規模環境破壊、生物化学兵器の使用、気象兵器の使用、武力による無差別虐殺……といった内容である。普通に考えればとんでもなく残虐非道な内容だが、これを聖書の中の「神」は特定の民族の解放という目的遂行のために他民族に対してやってしまう。
 歴代のアメリカの大統領たちは、こういうことが書かれている書物に手をのせて「So help me God」と宣誓してきたのだ。


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