なんちゃって宗教哲学(3) ゼロは存在するのか?


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ゼロの発見? 発明?


 「対頂角は等しい」「三角形の内角の和は180°である」といった「定理」はこのように「証明」できる。一旦証明された定理をいちいち疑っていたら、数学は成立しないし進歩しない。
 数学と同様に、物理学もまた論理則の世界である。すでに証明された数々の法則の上に、新しい思考、発見、発明を重ねていく。
 アルキメデスの原理を知らなければ船の設計はできない。
 しかしこれは、「人間は息をしないと死ぬ」とか「石ころと豆腐をぶつけると豆腐のほうが崩れる」といった、我々が日々の生活の中で体験しうる事象とは少し違う性格のものだ。
 物事を考えていく際の手段として「そう考えたほうが便利だからそう決めた」ものである。

 「そう考えたほうが便利」なものの例としては「(ゼロ)の発見(発明)」の話が有名だ。
 古代西洋文明には「無」という概念そのものが馴染まず、西洋キリスト教的な世界観(創造論的世界観)において「無という概念は無神論に通じる非倫理的なもの」というとらえ方をされていた。かのアルキメデス(BCE287年?~BCE212)やアリストテレス(BCE384~BCE322)も、ゼロの概念には否定的だったという。
 ゼロの概念を初めて数学に取り入れたのは7世紀のインドだといわれている。そんなに「最近」のことだったのかと驚かされる。

「無のものがある」という概念

「花子さんはお母さんからプリン2個が入った箱を3箱もらいました。プリンは全部で何個ですか?」
 ……という算数の問題を数式にすると、
 2×3=6 で、答えは6個、となる。
 インドでゼロが発明される前は、記号としてのゼロは存在したが、こうした数式で使える「ゼロ」(他の数字1~9のように数式で使えるゼロ)ではなかった。
 数式の中で使えるゼロというのは「無のものがある(ヽヽ)」という概念だ。
「花子さんはプリン2個入りの箱を3箱もらいましたが、全部食べてしまいました。今、箱の中に入っているプリンは全部で何個ですか?」
 ……こういう問題のとき、「全部食べてしまったんだから、箱がいくつとか関係ないじゃん。プリンはもうない、ってことでしょ」と考えてしまうと数学にはならない。
 数学では「0個入りの箱が3箱ある」と考える。従って数式は、
 0×3=0 ゆえに答えは0個。
 ……と、こういう考え方をすればゼロを数式に使える、ということを発明したのがインド人で、7世紀のことだったという。

 それから1000年の月日が流れ、17世紀になると、フランスの哲学者ルネ・デカルト(1596~1650)が、基準点を(0、0)にとった平面座標軸という考え方を発表したり、ドイツの数学者ゴットフリート・ライプニッツ(1646~1716)が、1と0を使う「二進法」を提唱したりして、数学の世界が一気に進歩していった。
 おかげで正確な図面が描けたり、コンピュータの演算方法が考案された。ゼロが発明されなければ今のような高度な機械文明は生まれなかった。「へえ~、ゼロの発見ってすごいんだね~」と感心するわけである。

論理則ですべてが説明できるわけではない

 我々は今、機械文明の円熟期のような世界に生きているので、こうした論理則が築いてきた社会があたりまえのものだと思い込んでいる。
 しかし、数学や物理学で「世界の実相」がすべて見通せるわけではない。
 誰もが子どもの頃から疑問に思う謎、例えば「宇宙の果てはどうなっているのか」「時間の始まりと終わりはどうなっているのか」「我々の命は肉体という目に見える物質だけで作られているのか」といった問いには答えてくれない。
 宇宙の始まりはビッグバンという爆発でどうのこうのという話にしても、「じゃあ、その前は何だったんだ?」という疑問が解決したわけではない。
 ビッグバンの前は「無」の状態だった、などと説明されたとしても、では「無」とはなんぞや? 何もないとはどういうことか。「何もない」と考える人間がいるから「無」とかいっているが、すでにその状態で人間がいるではないか。
 いや待てよ。ゼロの発明というのは「無(ゼロ)というものがある」というところから始まっていたのではないか?
 本当に「ゼロは存在するのか」?
 ……と、振り出しに戻るような哲学的問いが繰り返されてしまう。

文系脳 vs 理系脳?

 物理学にしても、初歩的な力学を学んでいる段階で「ただし摩擦はないものとする」とか「ただし空気抵抗はないものとする」といった条件がついた問題を出されるたびに臍を曲げる者が必ず現れる。
「だって摩擦はあるじゃん」「摩擦がなければ解答用紙に鉛筆で答えを書くこともできないじゃん」
 そう茶化す者にたいして、 「じゃあ、摩擦係数や空気抵抗とか計算しろよ。おれはしたくないがな」
 とつっこむ者も現れる。
 そのうちに、
「五月雨を集めてはやし最上川 ただし摩擦はないものとする」
「この時の主人公の気持ちを述べよ。ただし性欲はないものとする」
 ……などなど、文系脳 vs 理系脳といわれる両陣営の間で大喜利闘争が始まったりもする。
 大喜利で楽しんでいるうちはいいが、この対立が先鋭化してののしり合いの喧嘩になったりするのは、文字通り「洒落にならない」。
 それこそ「創作宗教 vs 情報宗教」の宗教戦争のようなものも起こりうる。

 話がかなり脱線したが、「論理則だけでこの世界のすべてを説明することはできない」ことは確かだろうし、現代社会における戦争には、この種の「宗教戦争的要素」が含まれていると考えてみることも無駄ではないと思われる。

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