情報宗教と経験則
社会の中で学んだことや様々な情報やルールを、疑う余地のないものとして絶対化させたものが「情報宗教」だ、などというと、「それは『経験則』の一種ではないのか」と思う人もいるだろう。
しかし、情報宗教は、いわゆる「経験則」とは違う。
経験則とは、実験や理論上の証明などに裏打ちされていなくても、自分の実体験によって「こうであろう」と導き出す法則のことだ。
これは「宗教」のような絶対性を主張しない。
「二度あることは三度ある」とか「雨降って地固まる」といった諺の多くは経験則から来ているといえるだろうが、二度はあったけれど三度目はなかったとか、雨降って土砂崩れが起きてその土地が放棄されたなんてことはいくらでもある。
経験則が通じない事例はたくさんあるし、経験則に従った結果間違った結末に至ることもあるということを、私たちはそれこそ「経験則」で知っている。
経験則は絶対ではない、ということが分かっていれば、経験則をうまく使って生きていける。
絶対ではないという認識が前提にあるからこそ、間違いを減らすことができる。
そもそも、世の中に「絶対」といいきれるものは少ない。
例えば、「地球は平面ではなく、球体に近い形をしている」というのは「絶対」正しいだろう。しかし「太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽の周りを回っているのだ」という「地動説」は「絶対」正しいとはいえない。「動く」とか「回る」という概念は、
視点や基準点をどこに置くかで変わるからだ。地球を基準点と定めれば、「天が回っている」という天動説的な思考もおかしいとはいえない。
こうした柔軟な発想がないと、科学も進歩しない。
経験則と論理則
法律の世界などでは、経験則の対義語として「論理則」という言葉が使われることがある。
これは「数学や論理上の法則に基づいて『AだからB』と結論を出すこと」という意味で使われる。
私が中学校に入って初めて受けた数学の授業を担当した教師(Y先生)は、どんな法則、定理も「こうだから覚えろ」ではなく、なぜそうなるのかをひとつひとつ説明し、証明した上で学ばせた。
例えば幾何では「対頂角は等しい」というのは基本中の基本の定理として、証明問題などを解くときに使われる。
上の図のように、2本の直線が交わったときにできる4つの角のうち、向き合っているものを「対頂角」という。
上の図では a と c 、b と d が対頂角だ。
これが等しい角度であることは説明されなくても分かる、と、教室の生徒全員が思うわけだが、Y先生は違った。
「a と b を足せば直線なんだから、a+b=180°だね? a+dもやはり180°だね? ということは、
180°-b=a 180°-d=a
ゆえにb=d だね?」
……と、こんな風に教える。
次に「じゃあ、今のことを踏まえて、三角形の内角の和は180°であることを証明してみなさい」と言う。
これは三角形を3本の直線が交わってできる図形として考える。
「aからlまで全部足すと360°×3で1080°
対頂角は等しいから、1080°の中には同じセットが2つずつ3組入っているので、1080°を6で割ればh+k+jが出る。
つまり、三角形の内角の和は180°。
……と、「対頂角は等しい」という、すでに証明済みの定理を使って三角形の内角の和が180°であることを証明していく。
あまりにもあたりまえだと思っていることも、ちゃんと論理的に証明しなければいけない。それが数学なのだ、という「哲学」のようなものに触れて、私は感動したものだ。
これは最もシンプルな「論理則」の例だが、理数系が得意な人は、こうした思考法こそが「真実」であって、信じてもいいものだと考える。
それはそれでいいのだが、
世の中のことがすべて論理則で説明できるわけではない。