なんちゃって宗教哲学(1) 創作宗教と情報宗教
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事務局・いつき
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アラン・イシコフ センセの「なんちゃって宗教哲学」講座として、「創作宗教と情報宗教」というテーマを展開中です。
まだ準備段階ですが、校正のために仮UPしています。
はじめに
「創作宗教」とは何か?
人間社会には様々な宗教が存在している。
従来、宗教と呼ばれるものに概ね共通しているのは、「神」という言葉に代表されるような「崇拝の対象」が存在することだ。
しかし、
宗教は
「神」が作ったものではない。
人間が作ったもの
だ。
例えば、キリスト教はイエスが作ったものではない。イエスはいろいろなことを語ったかもしれないが、それは「宗教」ではない。「キリスト教という宗教」は、イエスの死後に、イエスの回りにいた人間や、イエスの言動を伝聞で知った人間たちが作っていったものだ。
宗教の教義などを説く教典の類も、「神」が自ら執筆したものではない。教祖と呼ばれる人物や、初期の信徒・宗徒らが書いている。
キリスト教や仏教のように長い歴史を持つ宗教の経典は、時代を経て複数の人間が「編集」「改定」を重ねている。結果、宗教はどんどん変質し、分化していく。
これらの宗教は、複数の作者の手による「創作物」といえる。
これを「
創作宗教
」と呼ぶことにしてみよう。
創作宗教はどのような性質・性格を持つか。
創作宗教の代表ともいえるキリスト教を例に見てみよう。
キリスト教は、主にヨーロッパにおいて、民衆を統治する道具としてどんどん作りかえられ、体系化されていった。
布教する側は組織化され、多くの組織がそうであるように、中で階級や上下関係が生まれた。
キリスト教が成立してから長い間、キリスト教社会ではひとつの共通した世界観が形成されていた。
この世界は「神」が造った。あらゆる生き物も神の創造物である。神が最初から今の姿に造り上げていて、その中でも人間は神に選ばれた特別な存在である。
そんな世界観がひとつの大きな世界観を構築し、その世界観が「標準化」された社会ができあがった。
今ではこのタイプの世界観は「創造論的世界観」と説明されている。
創作宗教の働き
創作宗教にはいろいろな働きがある。
大きく3つあげるとすれば、
第一に、
民衆を管理し、動かすための道具
としての働きだ。
今のように情報伝達技術が発達していなかった昔は、大人数の人間をまとめ上げ、動かすための道具は同調圧力と宗教が中心だった。
人間は不完全な生き物だから、悩んでいても仕方がない。絶対的な存在の教えに従うことが絶対的な法則だと思い込ませることで、大人数を動かすことができた。
2つ目は
薬物のような役割
だ。
これは
麻酔薬的な役割と覚醒剤的な役割
に分かれる。
死という避けられない運命を持って生まれた人間が、死を恐れないようにするためのモルヒネ。
信仰という絶対的価値のためには、不合理、不条理と思えるようなことに目をつぶってでも突き進め!……そういう爆発的な、ときに暴力的な力を発揮させるための覚醒剤。
どちらも戦争や虐殺に利用できることに注意しなければいけない。
3つ目は
組織力としての効果・効率
。
一人ではできないことが、教会や教団という組織の力を使えばできるようになる。
例えば戦争孤児たちを見てなんとかしたいと思っても、一人の人間ができることは限られている。しかし、教会や教団といった組織の一員として動けば、孤児院をいくつも作ったり、その活動を国に援助させたり、広く寄付金を集めたりといった大がかりなこともできる。
組織に所属する宗教者の中には、その宗教の教理のすべてを必ずしも受け入れていなくても、バランスのとれた組織人として振る舞うことで組織の内外から人望を集め、自分の信念や理想に近い活動を実現している者たちもいる。
しかしこれも、使い方次第では政治や経済に介入し、社会を危険な方向に向かわせる道具となる。
太古の時代から近世まで、人間社会に生まれた宗教の多くはこのタイプのものだった。
創作宗教に対する疑念の出現
創作宗教は単純明快な世界観によって構成されやすい。
天国と地獄、善と悪、永遠の命を司る神と限りある命である人間……。
そうした教えは、高度な知識や教養がなくても、本能的、直観的に受け入れやすい。だからこそ広まっていく。
しかし、科学が発展してくると、それに異を唱える者も現れる。
例えば、キリスト教が広めた「世界は神の創造物であり、万物は神が最初から今の姿に造り上げた」という「創造論的世界観」に対して、そんな単純な考え方ではこの世界の構造を説明できないと主張する科学者、哲学者が出てくる。
その代表例としてよく使われるのがダーウィンの「進化論」だ。
ダーウィンは「生物は時代の経過や環境に合わせて変化する。うまく変化できなかったものは環境の変化についていけずに種が絶えてしまうこともある」という説を主張した。これを「自然選択説」などという。
「自然選択説」は当時のキリスト教会にとっては認めがたい世界観だった。あらゆる生物は、絶対的な存在である「神」が創造したものであって、最初から今の姿であることが決まっていた。魚は人間の食物となるために最初から魚の姿で造られている。ニワトリも同様に、人間がニワトリの肉や卵を食べられるように、あの姿で造られている。環境に合わせて変化するなどということはない。これに異を唱える者は神を恐れぬ不届き者だと攻撃した。
絶対的な創造主がいて、人間はその絶対的な創造主の意志に従って生きていくのだ、というシンプルな世界観や教理を浸透させれば、民衆をまとめやすいし、管理しやすい。生物が環境に応じて変化するなどという説を認めたら、今まで築き上げてきた社会秩序が乱れてしまう、と、彼らは恐れた。
キリスト教会内の人間だけでなく、多くの自然科学者が「自然選択説は倫理的に受け入れられない」と拒絶反応を示した。『昆虫記』で有名なアンリ・ファーブルも、ダーウィンの「種の起源」の内容には反対を表明していたという。
「進化論」という言葉の誤解
ここで注意したいのは、ダーウィンは「生物は進化する」とは言っていないことだ。「生物は環境に合わせて
変化する
」と言ったにすぎない。
「進化」という言葉には、より高度なもの、よりよきもの、完全なものになっていく、進歩する、という意味合いが含まれるが、「変化」にはそうした意味はない。ダーウィンら「自然選択説」を主張した学者たちは、優劣とは関係なく「変化する」と言ったにすぎない。
しかし、産業革命によって機械文明が発達するにつれ、「生物は環境に合わせて変化する」という説は、いつの間にか「進化」という言葉に置き換えられ、人間も進化(進歩)する、世界を変えていけるのだ、という考え方にすり替えられて広まっていった。
めまぐるしい社会変革が起きたことで、それまでの保守的な世界観が古臭く感じられるようになったのだろう。
「情報宗教」の発生
それがさらに進むと、科学技術や産業の発展、機械による効率化といったものが一種新しい「信仰」の対象になっていった。
誰かが意図して作ったわけではないのに、気がつくと
経験や情報によって得たものが絶対化し、宗教のように作用している
ことがある。
社会の中で学んできた(学ばされた)ことや、頭に入れてきた様々な情報やルールというものを、いつしか疑う余地のないものとして絶対化し、「絶対的価値」「例外なき判断基準」にしてしまっている──これはもはや「宗教」ではないのか。
このように、社会の変質や、体験、伝聞によって自然発生的に生まれた「宗教的なもの」を「
情報宗教
」と呼ぶことにしてみる。
現代社会は従来型の創作宗教と、産業革命以降に急速に広まっていった情報宗教とが混在した社会である。
人間社会は日々変化しているが、その変化の方向を決める最大の要素は「宗教」であろう、という考察を、今からしてみたい。
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