「人間史」を見つめ直す(32)

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小栗忠順、栗本鋤雲、赤松小三郎らの無念


イシモリ: さて、今回はいよいよ戊申クーデター勃発まで行けるかな。
 最初に私がいちばん言いたいことをまとめると、西郷隆盛と大久保利通(当時は一蔵)らが、薩摩藩を公武合体から倒幕に方向転換させたことの大罪。そして、そこから起きた戊申クーデターで多大な犠牲が出たのは、西郷隆盛と徳川慶喜に大きな責任がある、ということ。
 いわゆる「明治政府史観」では、徳川を悪者に仕立て上げるために慶喜の無責任さや弱腰ぶりはある程度描かれるけれど、西郷や大久保の極悪非道な行動は隠されてきた。
 最終的には西郷は明治政府を出て、西南戦争で政府軍によって死に追いやられるわけだけれど、その一連の流れは明治政府にとっては癒しがたい傷というか、絶対に表に出したくない恥部なんだよね。だから西郷の暗部は隠し、悲劇のヒーローみたいに脚色している。
 ましてや、大久保は明治政府で大蔵卿などの要職に就き、西南戦争では西郷を討つ政府軍の側だから、明治史観からすると、まずいことは記録に残せない。

凡太: え? 西郷さんや大久保さんはそんなにひどいことをやっていたんですか?

イシ: 印象操作というのは怖ろしいものでね。上野の西郷像なんかもふっくらした人間味のあるおっさんのように作られているけれど、あれはまったくの嘘。あの顔も全然違う。写真が残っていないのが幸いして、勝手に懐の深い豪傑みたいに印象づけられているけれど、実際には狡猾で、非情な人間だったと思うよ。

 なぜそう言えるのか。まずは薩長同盟が結ばれた慶応2(1866)年初めから順に史実を追っていこうか。

慶応2(1866)年の出来事

小栗忠順(ただまさ)(1827-1868)

幕臣。 勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行を歴任。
安政7(1860)年、日米修好通商条約批准のため米艦で渡米。ブキャナン大統領に謁見。日米修好通商条約で定められた通貨交換比率が不適当であると主張し、小判と金貨の分析結果を示して交渉。比率改定は拒否されたが、その聡明ぶりを現地の新聞賞賛する記事を書いている。
さらにアメリカの製鉄や金属加工技術に驚き、それを伝えるためにネジを持って帰国した。
戊辰戦争では薩長軍を壊滅させる具体的な作戦を提示したが、慶喜に拒否され、「将軍に薩長と戦う意思がない以上、大義名分のない戦いはしない」として上野国群馬郡権田村への土着願書を提出し、群馬に向かうが、その直後、冤罪をかけられて斬首された。満40歳没。


凡太: わあ、ここでも超優秀な幕臣が殺されてしまっているんですね。

イシ: 本当に残念だね。小栗が慶喜に提案した薩長軍迎撃作戦の内容を後になって知った大村益次郎は「その作戦で迎え撃たれていたら我が軍は壊滅していただろう」と震え上がっている。実際、それだけの兵力が幕府にはあった。榎本武揚率いる艦隊は実際に強かったし、陸軍も小栗らの強化策が実って力をつけていたからね。
 まあ、この話は後で改めてしよう。

 慶応2(1866)年の出来事を続けるよ。

レオン・ロッシュ(1809-1900)

文久4(1864)年にフランス公使として着任。幕府から製鉄所と造船所の建設斡旋を依頼されたことで幕府との共同歩調をとり、横須賀製鉄所建設、横浜仏語伝習所設立、パリ万国博覧会への参加推薦(幕府は慶喜の弟で当時14歳の徳川昭武を派遣、その後留学させる)、フランス経済使節団の来日招聘と600万ドルの対日借款・武器契約の売り込み、軍事顧問団の招聘と幕府軍の訓練などを行い、イギリス公使のパークスに対抗した。しかし、肩入れしていた幕府が崩壊。完全にパークスにしてやられた形になり、明治になる前に罷免され帰国。

凡太: 内政の混乱で手一杯なときにも、幕府は各国との交渉を続けていたんですね。

イシ: それだけ優秀な人材が揃っていたということだね。フランスとの関係では、小栗忠順と共に横須賀製鉄所の創業に関わり、徳川昭武のパリ万博派遣にも随行した栗本鋤雲(じょうん)も忘れてはいけない。
栗本鋤雲(1822-1897)

幕府の典医の三男として生まれ、函館で医官を務めた。
その後出世し、慶応元(1865)年の兵庫開港問題では、無勅許を咎められて罷免された阿部正外、松前崇広、両老中の後を受けて急遽外国奉行を命じられ、英仏米蘭の4カ国を相手に交渉した。
勘定奉行小栗忠順と親交を結び、また、仏公使ロッシュの通訳メルメ・カションを通じてロッシュとも親交を結んでいたため、ロッシュの協力の下、幕府内の反対論を押しきって、横須賀製鉄所建設や軍事顧問団招聘などに尽力。
凶作で日本の米価が高騰した折には、ベトナムの仏領サイゴンから米を輸入したり、フランスの養蚕が病害で不振に陥っていると知ると、幕府から純精卵紙1万枚をフランス政府に送らせ、返礼としてアラビア馬を送られるなど、特に日仏関係では多大な貢献をしている。
徳川昭武一行のパリ万博訪問派遣にも随行。渡仏中は、薩摩との繋がりのあったモンブラン伯が地元新聞社を通じて流した「幕府使節団はスパイだ」というデマを打ち消して悪化しかけた日仏関係を修復、イギリスとの外交にもあたったが、そこで日本で大政奉還が行われたという報を受ける。
明治以降は新政府からの出仕依頼を頑として断り、横浜毎日新聞の編集者を経て郵便報知新聞の主筆を務めるなど、生涯、反骨のジャーナリストとして生きた。明治30(1897)年、満74歳で没。


凡太: 栗本さんも凄い人ですね。幕府には本当に優秀な人たちがいたんですね。

イシ: 実力もさることながら、生き様も素晴らしいよね。
 パリ万博訪問派遣には渋沢栄一も加わっていたんだけれど、渋沢はもともとは過激な攘夷思想に染まっていて、高崎城を乗っ取り、そこを拠点に横浜外国人居留地を襲撃しようなどというテロ計画を練っていた人物だ。
 それがバレそうになって逃亡中、一橋家への士官の話に飛びついて、コロッと幕政批判をやめたかと思うと、パリ万国博覧会を見学する徳川昭武に随行しろと言われるとそれに従い、ヨーロッパの先進文化に圧倒されて、これまたコロッと断髪して攘夷思想を捨てる。帰国した後は明治政府のデタラメぶりに呆れながらも、大隈重信に説得されて制度取調御用掛、枢密権大使となって経済改革で大成功……。
 歴史の教科書に名を残し、一万円札の肖像画にもなる人生だけど、私は、渋沢よりも栗本や小栗忠順らのほうがはるかに国際通、経済通としての才覚を持っていただろうし、薩長閥の明治政府を拒否した生き様に共感するよ。

 ……と、なかなか先に進まないけれど、続けよう。

孝明天皇は暗殺されたのか?



凡太: 孝明天皇がこのタイミングで亡くなるんですね。将軍・家茂が亡くなって5か月後……京都は大混乱だったでしょうね。

イシ: どちらも暗殺説があるね。特に孝明天皇の死については、当時から毒殺説が囁かれていて、アーネスト・サトウも「事情に通じた日本人が、天皇は毒殺されたと明言していた」と書き残している。
 毒殺の首謀者が岩倉具視だという噂は当時からあったようだね。でも、もちろん真相は分からない。
 はっきりしているのは、このタイミングで孝明天皇が急逝したのは、幕府を倒そうとする過激派にとっては願ってもないことだったということだね。
 孝明天皇は最後まで幕府を頼りにしていたし、慶喜も孝明天皇をうまく利用して公武合体連合政権を作り、その中で幕府の政治能力を生かし続けようとしていた。薩摩の西郷、大久保、小松らや、長州の木戸、三条実美ら過激派公卿たちにとって、一番の障害が孝明天皇だったことは確かだ。

 ともかく、孝明天皇が急逝したことで、慶喜の新政権構想も大きな打撃を受け、薩長+過激派公家連合による統幕勢力は一気に勢いづいた

慶応3(1867)年の出来事

 では、孝明天皇崩御後の出来事を追っていこう。


凡太: この赤松小三郎さんはどんな人なんですか?

赤松小三郎(1831-1867)

信濃国上田藩士。藩校の明倫堂で学んだ後に江戸に遊学し、数学者・内田弥太郎、西洋兵学者・下曽根信敦に学んだ後、勝の従者として長崎海軍伝習所に行き、語学や航海、測量、兵学などを学び、オランダの兵学書を翻訳して出版。
その後、横浜に駐屯するイギリス士官に騎兵術、英語を学び、英国陸軍の兵学書を翻訳し、「英国歩兵練法」(五編八冊)として刊行。これは薩摩藩はじめ、多くの藩にとっての教科書としての役割を果たした。
幕府に「方今世上形勢の儀に付乍恐奉申上候口上書」という意見書を提出。上田藩主には、藩内の身分制度撤廃と言論活動の自由を求める建白書を提出。
幕府から西洋兵学教官として採用したいと上田藩に申し入れがあるが、藩はこれを断る。
そのため、行き場をなくしていたところ、薩摩藩から再三兵学教授を求められ、京都の薩摩藩邸で英国兵学を教える。
慶応3(1867)年9月、上田藩に帰国の途上、薩摩藩士で、赤松に教えを受けた中村半次郎と田代五郎左衛門に暗殺された。 満36歳没。

イシ: 身分制度撤廃や言論の自由、普通選挙による議会政治といった提言をする先進性を持った素晴らしい人物だよね。幕府に「長州征討は無意味だからやるべきではない」という意見もはっきり述べている。ただ思うだけでなく、相手が誰でもはっきりとものを言い、理想の実現に向けて努力し、実行した。
 あの時代、オランダ語や英語を学んで兵学書を翻訳するなんて、並みの努力ではできないよ。その知識を、他藩に呼ばれて行って教授したら、その生徒に殺される。薩摩は恩を仇で返すどころか、招いて教えを受けた師を殺したんだ。

凡太: なんなんですか。ここでもまた超優秀な人がテロで殺されているじゃないですか。しかも教えを受けていた生徒たちに。なんかもう、おかしくなりそうです。

イシ: 赤松は、公武合体から一転して倒幕を目指すようになった薩摩藩をなんとか元に戻そうと奔走した。薩摩の倒幕派である西郷、小松らと幕臣の永井尚志の間で何度も話をして、無用な内戦を回避させようとしていたんだが、そのために命をねらわれることになる。
 見かねた上田藩が、これ以上動くと殺されるから藩に戻ってこいと言うのも聞かず、最後まで説得を続けたようだね。
 しかし、西郷は長州藩と結んで倒幕の挙兵計画を立てる。それを知った赤松は、ついに諦めて上田藩からの帰藩命令に従って戻ろうと準備していたところ、京都を出る前に殺されてしまうんだ。
 京都三条大橋には「この者は西洋かぶれで、皇国の意図に背き、世間をたぶらかそうとした不届きものにつき、天誅を下した」という内容の紙が結びつけられていたそうだ。

 赤松を斬った中村半次郎は「人斬り半次郎」と呼ばれるテロリストだけれど、彼らに暗殺を命じた上の者がいるはずで、まあ、間違いなく薩摩藩の武力討幕派による組織的犯行だね。
 特に大久保利通(当時は一蔵)は真っ黒だ。
 赤松は殺された日、大久保が主催する送別会に出ていたんだけれど、その席で中村が「(赤松)先生がいると、我々は敵と本気で戦うことができない」と告げ、師弟の縁を切っている。その帰りに殺されてしまうんだから……。

 もともと大久保は赤松をイギリス式の兵学教師として呼ぶことに乗り気ではなかった。赤松も最初は断ったようだけれど、幕府からの招聘を上田藩が断ってしまったことで行き場がなくなり、他藩の者も学べるようにするなら薩摩藩邸を教室としてもいいかもしれない、と思ったようだね。会津藩の砲術指南・山本覚馬も会津洋学校へ赤松を招いている。
 何藩だろうが関係ない。日本が欧米列強と並ぶには、藩の垣根を越えて西洋の知識を学ばなければいけないという赤松の先進的な考えゆえなんだろうけれど、偏狭な倒幕過激派の大久保らには、そんな度量はない。赤松はスパイじゃないかとか、そういう目でしか見られないんだね。大久保は村田新八らに命じて、以前から赤松の身辺を偵察させていたほどだ。

 人斬り半次郎こと中村半次郎は、明治に入ってから赤松がいかに凄い人物だったかを知り、斬ってしまったことを後悔してうなされる日々だったという。長州の山県有朋に、もっと早く明治政府が成立していれば赤松を斬ることはなかったのにと愚痴っている。

凡太: え? もしかして長州も赤松さんの暗殺に関与していたんですか?

イシ: それはありえるね。長州の品川弥二郎の日記にも赤松の暗殺の件が書かれている。品川弥二郎は佐久間象山暗殺にも関わっていた長州の過激派だ。
 赤松小三郎の暗殺後、薩摩藩は赤松が残した書類や赤松に関するものをすべて焼却処分している。証拠隠滅をはかっている時点で、組織的犯行であったことは濃厚だね。

 とにかく、赤松は飛び抜けて優れた人物だった。
 赤松が幕府、久光、春嶽に提出した「建白書七箇条」は、今ではあたりまえの「三権分立」や「選挙による議員で構成される二院制議会」といった具体的な政治改革案で、これは書き写されて諸藩にも渡るほど注目を集めた。
 このとき、慶喜に加えて、島津久光(薩摩藩)、松平春嶽(越前藩)、山内容堂(土佐藩)、伊達宗城(宇和島藩)の4人を加えたいわゆる「四侯会議」が、慶喜の「俺以外はみんなバカだ」パフォーマンスによって壊れてしまった時期で、特に馬鹿にされた久光は、慶喜を将軍職から諸侯と同じ列に引き下げ、朝廷のもとで開く諸侯会議による新政権を目指した。そのためには武力に訴えることもやむなしと。
 一方、土佐の山内容堂は、武力による将軍職剥奪ではなく、慶喜が自ら大政を朝廷に奉還して将軍職を辞する「大政奉還」による新体制を目指していた。この大政奉還論は後藤象二郎も主導していて、そこに龍馬も同調していた。
 一旦は長州との連合で倒幕を進めようとした薩摩も、土佐藩の大政奉還論に乗ることに決めた。久光としては、あくまでも慶喜が一人で牛耳ろうとする形でなくなればよかったので、内戦が避けられるならそのほうがよかったからだ。

凡太: その大政奉還論を推し進めたのが坂本龍馬なんですよね?

イシ: そういうことになっているけれど、龍馬の案というわけじゃない。
 大政奉還論はそれ以前からあったし、このときに薩摩藩はじめ、諸藩に影響を与えたのはやはり赤松が幕府に提出した「建白書七箇条」だった。

凡太: でも、坂本さんも「船中八策」で、議会制民主主義の基本のような提案をしていましたよね。

イシ: ああ、あれねえ……。
 実は「船中八策」というのは、後世、龍馬を持ち上げるために作られたフィクションなんじゃないかという説があるんだよ。

凡太: ええ~? 船中八策はなかったんですか?

イシ: 通説では、慶応3(1867)年6月、龍馬が長崎から京都に向かう「夕顔丸」という船の中で後藤象二郎と話し合った内容を長岡謙吉に書き取らせた文書が「船中八策」だとされているんだけど、その原文は残っていない。そもそも「船中八策」という名称も大正時代につけられたものだ。
 でも、龍馬が慶応3(1867)年11月に書いたとされる「新政府綱領八策」と呼ばれるものが残っている。
龍馬自筆とされる「新政府綱領八策」(国立国会図書館蔵)

第一義 天下有名ノ人材を招致シ顧問ニ供フ
 (広く優秀な人材を集めて政治顧問にする)

第二義 有材ノ諸侯ヲ撰用シ朝廷ノ官爵ヲ賜イ現今有名無実ノ官ヲ除ク
 (優秀な人材には朝廷の官位を与え、名ばかりの官位者は排除する)

第三義 外国ノ交際ヲ議定ス
 (諸外国との条約を決議する)

第四義 律令ヲ撰シ新タニ無窮ノ大典ヲ定ム律令既ニ定レハ諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下ヲ卒ス
 (法律を洗い直し、新たに最上の法典を制定する。諸侯はすべてこの法典に従う)

第五義 上下議政所
 (上院・下院の議会を作る)

第六義 海陸軍局
 (陸軍、海軍局を置く)

第七義 親兵
 (御所を守る兵を置く)

第八義 皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス

 (金銀の交換レートを見直し、諸外国と平等のものにする)

右預メ二三ノ明眼士ト議定シ諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云云
○○○自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下萬民ニ公布云云
強抗非礼公議ニ違フ者ハ断然征討ス権門貴族モ貸借スル事ナシ
 (以上をあらかじめ二、三の頭脳明晰な者と合議して定め、諸侯会盟の時に披露・策定する。
 〇〇〇自ら盟主となり、これを朝廷に奉ったうえ、天下の人民に公布する。
 非礼にも公議に強く反対する者は、断固征討する。名家や貴族といえども斟酌する必要はない。)

慶応丁卯十一月 坂本直柔

凡太: とても分かりやすいですね。

イシ: そうだね。龍馬直筆の書が2枚残っているとされているから、龍馬は確かにこうした理想を持って動いていたんだろう。

 ただ、赤松小三郎が幕府、久光、春嶽に建白書を出したのは慶応3(1867)年5月、龍馬が新政府綱領八策を書いたのは11月だから、龍馬もまた、赤松の建白書の内容に強く影響を受けたという可能性は高いね。
 赤松は「もう一人の龍馬」なんて言われることもあるけれど、それは赤松に失礼だよ。

 歴史学者たちも、坂本龍馬については後世どんどん英雄的な話が付け加えられていって、実像とはだいぶかけ離れたものになっていると理解してきて、教科書から坂本の名前は消えるかもしれないという予想もあるようだね。
 ちなみに山川出版社の「新日本史B」でも龍馬の記述は一か所だけだ。
 1866(慶応2)年には、土佐藩出身の坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介で、薩摩藩の西郷と長州藩の木戸らが相互援助の密約を結び(薩長連合)、幕府に抵抗する姿勢を固めた。
(山川出版社 「新日本史B」 229ページより)


凡太: それにしても、赤松さんも坂本さんも殺されてしまいました。悔しかったでしょうね。


「小三郎伝」合情記 •みなとかおる作 こうした解釈も、ようやく少しずつ……


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