「人間史」を見つめ直す(31)

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中途半端すぎた長州征討


イシモリ: 禁門の変の後、激怒した孝明天皇は慶喜に「すみやかに長州を誅伐せよ」と、直接自分の言葉で伝えた。
 この時点で、徳川の政治権力は完全に天皇の下になってしまったという感じだね。
 慶喜は長州とそれ以上戦うのは気が進まなかったようだけれど、結局、将軍家茂の名で「長州藩征討」を決めた。
 しかし、そのときイギリスは長州が海峡を封鎖していることは許せないとして、イギリス総領事オールコックが、フランス、オランダ、アメリカにも呼びかけ、4国連合艦隊で下関の砲台などを砲撃した。
 結果は当然、長州のボロ負け(下関戦争)
 長州藩は孝明天皇からは事実上「朝敵」として認定されて討伐されることになり、それより先に諸外国に武力の差を見せつけられて大敗。完全に孤立し、藩の消滅も間近かというところまで追い込まれた。

凡太: それなのに明治新政府では中心になっていますよね。なぜそんな逆転ができたんですか?

イシ: そこなんだよねえ。
 教科書ではこう書いているね。
 いったん幕府に屈服した長州藩では、高杉晋作・桂小五郎(のち木戸孝允)らの藩士が、奇兵隊などの諸隊を率いて1861(元治元)年12月に挙兵し、幕府が攻撃するならば抗戦する藩論へ変更させた。そこで幕府は、ふたたび長州征討(第2次)を諸藩に命じた。
 しかし、権力の再強化をねらう幕府の内情を知った薩摩藩の西郷や大久保は、長州征討に反対し、長州藩がイギリス人貿易商グラバーから武器を購入するのを援助するなど、ひそかに長州藩を支援した。1866(慶応2)年には、土佐藩出身の坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介で、薩摩藩の西郷と長州藩の木戸らが相互援助の密約を結び(薩長連合)、幕府に抵抗する姿勢を固めた。
(山川出版社 新日本史B より)

 ……まあ、概ねそうなんだろうけれど、「幕府に屈服した」とか「権力の再強化をねらう幕府」といった書き方が、幕府=悪者という印象を与えようとしているようで気になるね。
 まず、長州征討を命じたのは幕府というよりは孝明天皇だよ。それに従ってしまう慶喜がダメなんだけれどね。そんなことをやっている場合じゃないんだから、あの時点で余計なエネルギーを使うのは愚策だった。「権力の再強化をねらう」どころじゃない。特に第2次長州征討はやるべきではなかったね。
 長州征討そのものが最初から中途半端だったんだよ。放っておいても長州は力を失っていったはずだし、やるならやるで、完全に長州藩を廃藩・解体して幕府の直轄地にするくらいやらなければ意味がない。
 もしあの時点で長州を完全に潰しておければ、その後、江戸庶民や東北の人たちが殺されることもなかった。
 慶喜はすでに公武合体、諸藩連合による新政治を構想していたわけで、少なくとも「権力の再強化をねらう」は違うな。
 さらには、やはり、イギリスとの関わりが徳川崩壊の大きな要因になっていくんだよね。

 まず、長州では、一旦は敗北の責任をとらされて幽閉中だった高杉晋作が呼び戻されてイギリスとの講和にあたった。
 とにかく異国はぶっ殺せと過激一本槍だったために藩からも「困った人」扱いされて失脚していた高杉が、イギリスに謝ってこいと命じられたわけだね。
 そこにイギリスへの密留学から急遽戻っていた井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)も通訳兼補佐として加わっている。イギリス側の通訳はアーネスト・サトウが務めた。
 その結果、外国船に対して下関海峡の通行を解放すること、石炭や食物などを外国船が自由に買えるようにすること、荒天のときは乗組員が下関に上陸できるようにすること、砲台はすべて撤去すること(実際はほぼすべて砲撃で破壊、占領されていた)、賠償金300万ドルを支払うこと、という5つの条件で講和できた。
 賠償金については、ボロボロになっている長州藩が払えるはずもなく、高杉が「幕府の命令に従った」と強引に主張したため、幕府が払うことになった
 その後、35藩、総勢15万ともいわれる長州征討軍が編成され、薩摩の西郷隆盛が参謀として全権を委任された。
 ところが、西郷は長州を攻めようとはせず、禁門の変の際に上京した家老3名の切腹と参謀4名の斬首、そして京都から逃げて長州に匿われている三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修の追放を条件に降伏せよと工作し、概ねその線で収束に向かった。
 これが元治2(1865)年11月の第一次長州征討だ。
三条実美(1837-1891)
過激攘夷派公卿の筆頭格。父親の三条実万は戊午の密勅で暗躍し、幕府から蟄居を命じられた。過激攘夷派たちと深く関わり、学習院御用掛となった真木和泉と組んで、公武合体の上での攘夷を主張する孝明天皇と対立。「八月十八日の政変」で「七卿落ち」したひとり。京都から追放された後は、高杉晋作の奇兵隊を護衛とし長州に匿われ、高杉らと武力クーデターを計画したが禁門の変での敗北を知る。
大政奉還後、赦免され議定に就任。反幕派筆頭として暗躍を続けた。倒幕軍が江戸に入った後は、彰義隊の殲滅を主張する大村益次郎を支持。明治新政府成立後は太政大臣など要職に就く。



凡太: 戦いが回避できたんですね。

イシ: うん、まあ、それ自体は悪くはないんだけれど、薩摩の西郷や大久保利通らは、このときはもう、幕府に対抗する姿勢で固まっていたから、幕府に命令されて長州を討つということに乗り気ではなかった。

凡太: 幕府の命令というより、孝明天皇の命令ですよね?

イシ: その通り。薩摩も長州も、尊皇尊皇と叫びながら、実際には天皇を蔑ろにしているのがよく分かるね。
 このとき、長州藩はゴタゴタが極致に達していた。
 ボロボロ状態だったから、とにかく恭順の意を示して藩の存続だけに集中しようという現実直視派と、あくまでも戦い抜いて自分たちの正当性を訴えるんだと息巻く過激派が分裂していた。ちなみに長州藩内の分裂を「正義派」と「俗論派」などという名称を使っているけれど、とんでもないね。
 この分類だと、超過激テロリストの久坂玄瑞はじめ、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、井上聞多(井上馨)、伊藤俊輔(伊藤博文)ら、吉田松陰門下系の者はみんな「正義派」なんだよ。

 正義派というのは高杉がつけたらしいけれど、それを現代でも歴史書などで平気で使っているのは恥ずかしすぎるね。

凡太: 勝てば官軍、というのと同じですか?

イシ: まあ、そうだね。
 このとき長州では、武士の身分に関係なく「諸隊」と呼ばれる、攘夷を求める兵隊を集めた傭兵部隊みたいなものがいくつもできていた。
 高杉晋作の奇兵隊が有名だけれど、他にも御楯隊、遊撃隊など、いくつもの傭兵部隊があった。
長州藩奇兵隊 Wikiより
 高杉はそうした傭兵部隊に対して、今こそ戦うときだと檄を飛ばしたんだけれど、同調する者たちはほとんどいない。
 それでも伊藤博文が率いる力士隊、太田市之進が率いる御楯隊、石川小五郎が率いる遊撃隊だけが高杉に賛同して、都落ちした五郷を匿っている功山寺に集まり、その後、わずか80数名で馬関(下関)に出て、会所(役所)を襲撃(功山寺決起)。馬関総奉行の根来親祐はすぐさま降伏し、役人たちを殺さないことを条件に多少の軍資金を与えた。
 その間、伊藤博文は軍資金集めのために奔走し、豪商らから二千両の大金を集めた。
 その後、高杉のもとに集まる志願兵的な者は増えていき、当初は高杉を冷ややかな目で見ていた諸隊内の空気も変わり、高杉と一緒に武力による倒幕・攘夷を決行しようという勢力が一気に膨れあがった。
 高杉が起こした藩内クーデターが本格化していき、藩正規軍とクーデター軍が各地で戦闘を繰り広げた結果、クーデター軍が勝利し、長州藩は再び倒幕と攘夷で藩論が統一された

凡太: 高杉晋作が暴走しなければ、長州藩は第一次長州征討での降伏で終わっていたかもしれないんですね。

イシ: そうだね。もっともイギリスが背後ですでに動いていたから、そう簡単には潰されなかったんじゃないかな。

 この藩内クーデターを必死で抑えようとしていたのが奇兵隊の第三代総監・赤禰武人(あかねたけと)という青年だ。
 赤禰は元々は吉田松陰門下で高杉とも親しい攘夷派だったんだけれど、下関戦争を経験して、もはや国内で戦争をしている場合ではないと強く認識した。
 暴走する高杉を止めようとあれこれ奔走し、藩内の融和を目指し、高杉にも「藩論を二分して争っているときではない。挙国一致で外敵にあたるため、話し合う気持ちを持て」と諭したんだが、高杉は止まらない。高杉が武力で藩論を強硬論に揺り戻すことに成功すると、赤禰は裏切り者の烙印を押されて命を狙われ、一旦は京都へ逃れた。
 京都潜伏中に幕府に捕らえられ入獄。しかし、獄中から幕府に急務五箇条という意見書を提出。それが幕府大目付・永井尚志(なおゆき)の目にとまり、長州藩取り調べのために長州へ向かった永井に随行する。
 そこで、かつての同志らと接触して主戦論の撤回を説いたものの、ますます幕府のスパイだと決めつけられ、捕縛されて処刑されてしまう。
永井尚志(1816-1891)

徳川家につながる三河国奥殿藩第5代藩主・松平乗尹の子として生まれる。父が家督を弟の子に譲っていたため、名門・松平家の子として生まれながら、家督争いの種になる恐れありとされ、江戸藩邸で育ち、旗本・永井家の養子に。
幕臣として、岩瀬忠震と共に各国との通商修好条約の現場に立ち会う。戊辰戦争では函館まで戦い抜いたが捕らえられ、明治4(1871)年に特赦で出獄。生涯幕臣としての忠誠を貫いたが、慶喜は明治以降、後ろめたかったからか、永井には会おうともしなかった。没年満74歳。

赤禰武人(1838-1866)

松下村塾での吉田松陰門下生。高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、久坂玄瑞、井上聞多らと共に英国公使館焼き討ちに加わるなど、テロ活動を行っていたが、下関戦争の敗北で武力攘夷の無理を痛感。第一次長州征討後は挙国一致を説き、藩内の融和をはかるが、裏切り者扱いされ、最後は藩により処刑される。没年満28歳。


凡太: 永井さんは死なずに生き延びましたが、徳川のために尽くしたのに裏切られたみたいな形で、明治以降は悔しさや虚しさをずっと感じていたでしょうね。
 それと、赤禰さんは良識を持って奮闘したんですね。ここでも有能な人材がテロ勢力によって殺されてしまったんですか。ひどいなあ。

イシ: なにが「正義派」だと言いたくなるだろ?
 気に入らないやつは殺してしまえというテロリストたちが、無駄な争いややめて話し合い、国の建て直しをしようと呼びかけ、奮闘する者たちを次々に殺していく。それのどこが「正義」なんだ、と。

 長州藩内で、藩政改革のために尽力しながら過激派によって殺された藩士は他にもたくさんいる。

 坪井九右衛門(くえもん)(1800-1863)は、大変な時期に改革を進めた家老・村田清風の後を引き継ぐ形で藩政に携わっていた家老だけれど、暴走する藩内の過激派を抑えて幕府と折り合いをつけようとする姿勢が過激派から敵視され、文久3(1863)年に過激派によって捕らわれて処刑されてしまった。

 第一次長州征討で恭順を示すために、奇兵隊をはじめとする諸隊に解散を命じ、降伏条件として提示された3家老切腹を呑んだ椋梨藤太(むくなしとうた)(1805-1865)も、高杉、伊藤、桂小五郎らの倒幕攘夷派の盛り返しによって捕らえられ、息子の中井栄次郎らとともに処刑された。
 こうして、長州藩内で倒幕過激派を抑えようとした者たちはことごとく藩内クーデターによって殺されてしまったんだ。

凡太: 殺された人たちはみんな「俗論派」と呼ばれて、殺した側は「正義派」と呼ばれているんですか。

イシ: 明治政府が作った歴史の中でそう呼ばれているだけならまだしも、現代でもその呼称が残っているというのはひどすぎるね。
 ちなみに長州のテロリストたちが、孝明天皇の意向によって京都から追い出された文久3(1863)年8月18日(1863年9月30日)時点で、「正義派」と呼ばれた長州過激派の主な面々が何歳だったか、そしてその後どうなったかを確認してみると、

凡太: 生き延びた人たちはみんな明治政府で要職に就いているんですね。

イシ: しかも、明治政府を作った途端、ケロッと攘夷は引っ込めて、イギリスの言いなりになった。とんでもないよ。

 そのイギリスはこの時点で相当深く薩長に食い込んでいる。

 元治2(1865)年4月に慶應と改元された翌月、イギリス総領事がオールコックからハリー・パークスに代わった。
 パークスは中国でオールコックの下で働き、様々な修羅場をくぐってきたやり手。日本総領事に着任するや否や、積極的に動いた。
 まずは、フランス、オランダ、アメリカを説得し、連合艦隊(アメリカは公使のみ参加)を兵庫沖に行かせて、天皇や、京都に出ていた将軍らを威圧。条約の勅許、関税率の改定、兵庫の開港などを迫った。
 下関戦争の賠償金を3分の1に減らしてやるから、その代わり兵庫をさっさと開港しろ、という戦法だ。
 幕府側は必死で孝明天皇を説得し、その結果、天皇も渋々条約を勅許して関税率改定も認めたが、兵庫開港だけは拒否した。

凡太: 兵庫開港を認めて関税率改定を拒否したほうがずっとよかったんじゃないですか?

イシ: そうだね。孝明天皇にはとにかく政治や外交を担える資質はなかった。「異人が京都に近い所をうろつくのは嫌だ」という生理的な拒否感というか、感情だけで動いている。
 このとき幕府側で交渉にあたっていたのは老中の阿部正外と松前崇広だった。
 パークスらは「兵庫開港についてさっさと回答しない場合、もはや幕府には条約遂行能力がないものと判断し、京都御所に押しかけて天皇と直接交渉する」と迫った。
 そんなことをされたらそれこそ幕府の権威は完全崩壊してしまう。阿部、松前の両老中は、仕方なく無勅許で兵庫開港を決めたんだが、まずいことに、この頃は慶喜が天皇を利用して自分の地位を確保しようとしているから、まずい判断だと分かっていても孝明天皇を立てて、無勅許はいかんと二人を叱りつけ、老中から解任し、謹慎を命じた。

凡太: そんなことしたら、幕府はますます諸外国に舐められてしまいますよね。

イシ: そうだね。実際、パークスはこの時点で完全に幕府を見限っただろうね。幕府には国を統率する力がない、と。

 そのタイミングで、薩摩は一気に長州に接近する。
 幕府は、西郷が薩摩藩の中で台頭し、長州を守る姿勢を見せていたことをしっかり見抜けなかった。
 西郷の台頭と土佐の土方久元、中岡慎太郎、坂本龍馬らの暗躍グラバーと小松帯刀の商魂、といったいくつもの要因がすべて長州に味方したといえるけれど、武闘派筆頭の西郷でさえ、まだ幕府を倒すところまでは考えていなかったんじゃないかな。幕府に潰されない力をつけて、諸藩連合政権ができたときに徳川と並ぶ上位の席につきたい、というような構想だったと思う。
土方久元(1833-1918)

土佐藩士。尊皇攘夷思想に傾倒し、土佐勤王党に入る。京都では過激攘夷派の浪士や過激派公家・三条実美らと交流。「七卿落ち」では三条らに伴って長州へ。同じ土佐の中岡や坂本と共に、西郷と木戸の密約を周旋。
明治以降は東京府判事、農商務大臣などの要職を歴任。大正7(1918)年、満84歳没。


中岡慎太郎(1838-1867)

大庄屋の家に生まれ、攘夷思想に傾倒し、土佐勤王党に入る。藩主・山内容堂の過激派粛清を逃れるために脱藩し、長州へ亡命。下関戦争を経験して上位の無謀を痛感し、開国富国強兵に転換。土方久元らと共に、薩長同盟を周旋。
その後、土佐の乾退助(板垣退助)を西郷に引き合わせ、薩摩藩家老・小松清廉(帯刀)、西郷らと倒幕計画を練り、土佐も出兵するという密約を結んだ(薩土密約)。
さらには岩倉具視と坂本龍馬を引き合わせ、岩倉と三条実美と和解・協力させるなど、倒幕準備のために奔走した。
慶応3年11月15日(1867年12月10日)、京都の近江屋にて坂本龍馬といるところを急襲されて死亡(近江屋事件)、満29歳没。


坂本龍馬(1836-1867)

土佐藩郷士の家に生まれる。江戸で佐久間象山の私塾などで学ぶ。親戚の武市半平太率いる土佐勤王党に入り、全国初犯の動向を探るため各地を回る。久坂玄瑞、高杉晋作らと交流し、松平春嶽にも会って勝海舟へ紹介してもらうなど、精力的に人脈を広げた。
海舟に心酔し、海舟が進めていた海軍操練所設立に尽力し、設立後は神戸海軍塾塾頭に就任。そこで身につけた航海術を五代友厚らに見込まれ、出資を受けて亀山社中(海援隊の前身)を設立。グラバー商会から薩摩藩名義で買った武器を長州に横流しするトンネル会社のような役割を果たす。
慶応3年11月15日、近江屋にて暗殺された。満31歳没。

凡太: 薩長同盟は坂本龍馬さんが苦労して結ばせたという風に思ってますけど、それはそうなんですか?

イシ: 龍馬は薩長同盟の場に同席していたけれど、薩長同盟をなんとしてでも成立させたかったのはむしろ西郷や小松帯刀だったんじゃないかな。龍馬は彼らの下で動いていたとも考えられるね。
 あるいは、龍馬はグラバー商会の営業マンみたいなものだから、イギリスの力を思い知らされている西郷は龍馬を無視できなかったし、小松帯刀にいたってはイギリスの代理人みたいなものだから、小松の意向はイギリスの意向でもある、という認識だったのかもしれない。
小松帯刀(たてわき)清廉(きよかど)(1835-1870)

薩摩藩士。禁門の変では薩摩軍の一員として戦うが、第一次長州征討では長州の謝罪降伏を働きかけてまとめる。坂本龍馬と昵懇になり、長州の井上馨と伊藤博文を長崎の薩摩藩邸に匿ってグラバーと引き合わせ、薩長同盟に導いた。グラバーの仲介で五代友厚らを密かに英国へ密出獄・留学させたり、パークスを薩摩に招いて島津久光と会わせるなど、薩摩とイギリスの関係を全面的に斡旋。明治新政府では外国事務掛、外国官副知官事などを歴任するが、病に倒れ、明治3(1870)年に満34歳で病没。


 そもそも薩長同盟というのは、薩摩の西郷と長州の木戸孝允(桂小五郎)の間で交わされた「口頭の密約」なんだよね。契約書みたいなものがあるわけじゃない。木戸が龍馬にあてた手紙というのが残っているだけ。
 その手紙には6箇条の約束が書かれていて、龍馬がその手紙の裏に朱筆で「確かにこれで間違いない。私が同席して聞いたとおり」という確認が書かれている。
 内容をざっとまとめると、
 ……というものだ。
 この段階ではあくまでも幕府を倒すということではなく、薩摩はどんな状況になっても長州が朝敵の汚名を消してもらえるように働きかけるよ、ということだね。

凡太: 手紙が残っているなら、実際にそういう密約があったんですね。でも、西郷さんも木戸さんも、藩主ではないですよね。ましてや坂本さんは土佐藩を脱藩した人で、そんな人が「これで間違いない」とか確認したところで、効力があるんですか?

イシ: ほんとにそうだよね。
 木戸は池田屋事件、禁門の変、第一次長州征討のすべてで現場近くにいて、九死に一生を得ながら逃げ延び、藩の延命のために工作を続けた人。西郷は二度の島流しから生還して、藩父・島津久光に嫌われながらも力をつけていった人。
 龍馬はグラバー商会の代理人みたいな形で見届け人をやっていた、とも考えられるね。
 ともかく、こうした人物が藩主を飛び越えて、宿敵同士の「同盟」を結ぶというのが、まさに混乱の時代の象徴といえるかな。

凡太: 西郷さんや小松さんはグラバーやパークスと連携して動いていたんですか?

イシ: どうなんだろう。どこまで密接に連携していたかは分からないけれど、とにかくパークスは精力的に動いていた。
 下関で長州藩の高杉晋作・伊藤博文と会い、薩長がグラバーを通し、武器提供に関して協力し合おうとしていることを知ると、グラバーの仲介で鹿児島に行き、薩摩藩主と国父(島津忠義と島津久光)、西郷隆盛、寺島宗則と会見している。
 このとき倒幕を目指す西郷は、英仏米蘭は兵庫開港問題における幕府の態度をもっと追及するべきだと主張したが、パークスは自分たちはあくまでも内政には不干渉の立場だと主張したと伝わっている。
 しかし、西郷らと会談したことで、「薩摩は使える!」という思いを強くしただろうね。

 パークスはさらに、フランス公使レオン・ロッシュと共に下関を訪れ、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)、伊藤博文らと、小倉で幕府老中・小笠原長行と、宇和島で前宇和島藩主・伊達宗城らに会い、幕府と長州の関係を調停しようとしたが失敗。
 翌慶応3(1867)年には大坂城で慶喜に会い、開港勅許を約束させ、江戸に戻ると軍艦奉行・勝海舟とイギリス海軍教官受け入れなどについて交渉。さらには日本海側を南下して新潟、佐渡、七尾を視察。長崎で泥酔したイギリス軍の水兵2名が殺される事件に土佐藩の海援隊が関与したのではと疑われたことで土佐に行き、後藤象二郎らと交渉もしている。この件は、後に海援隊ではなく、筑前藩士・金子才吉の犯行だと分かったんだけれどね。

凡太: ものすごいエネルギーですね。どこからそんな体力と気力が……。

イシ: 当時パークスは30代半ばだから、体力はあったんだろうね。しかも、あちこちで外国人殺害テロが起きているのに、夫人を連れて女人禁制だった富士山に登頂したりしている。肝が据わっているというか、余裕すら感じるね。

凡太: あれ? 富士山にはオールコックさんも登ってましたよね。

イシ: そうそう。富士山というのは外国人にとっても不思議な魅力を感じさせる山なのかねえ。

 ただ、この時点でも、パークスは幕府を武力で倒そうとまでは考えていなかったはずだ。
 薩長に武器を供給することで幕府に対抗する力をつけさせようとはしているんだけれど、その結果、自分たちの思い通りの政府を作れればいいわけで、日本で大規模な内乱が起きて国が疲弊することは、貿易で利益を上げたいイギリスとしてはなんのメリットもない
 実際に、パークスは鳥羽伏見の戦いが勃発した際には「中立静観」を宣言し、勢いづいた倒幕軍が江戸に迫ると、江戸への攻撃中止を求めている。江戸を火の海にしたくなかったのは、人道的な配慮というよりは、経済的な判断からだろうけれどね。
 結果として明治政府はイギリスの傀儡政権みたいになったので、イギリスの思うつぼなんだけれど、慶喜が大政奉還して、江戸を無血開城までしたのに、戊辰戦争という無意味な戦争で多くの犠牲が出たことは、イギリスのせいというよりは、やはり薩長の我欲と私怨による大量虐殺テロという性格のものだと思うよ。
 とくに、東北諸藩は理不尽な目にあわされた。
 私怨テロにしたのは、薩摩では西郷、大久保、小松帯刀らであり、長州では木戸孝允、世良修蔵、大村益次郎、高杉晋作、伊藤博文、井上聞多(馨)といった面々だね。この中では高杉は明治政府誕生の前に死んでいて、東北で狼藉を続けていた世良は怒った仙台藩士に殺されている。
 生き延びた面々はみな明治政府で要職に就いた。明治政府がテロリスト傀儡政府と呼ばれる所以だね。
 攘夷を叫んで人殺しをしていた者たちがクーデターに成功して新政府を作ったら、その政府はイギリスの傀儡政府で、最初からイギリスにいろんなことを押しつけられ、操られていた。

 ……それはこの先どんどんはっきりしてくるんだけれど、今回はとりあえずこのへんまでにしておこうか。

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