「人間史」を見つめ直す(17)

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戦がなくなったことで花開いた庶民文化


イシモリ:  島原の乱以降の江戸時代については細かな事件などはすっ飛ばしていこうと思う。というのも、幕末に起きたことが持つ歴史的な意味が大きすぎるので、そこをしっかり検証したいからだ。
 でも、幕末の激変に話を進める前に、江戸時代の庶民文化については触れておきたいね。

凡太: 江戸時代の庶民がどんな暮らしをしていたか、ということですか?

イシ: いや、何を食べてたとか、混浴があたりまえだったとか、糞尿を買い取って肥料にする商売があるなど徹底したリサイクルをしていたとか、そういう生活の様子については、教科書やらなにやらでいろいろ書かれているからあまり深入りはしない。ここではアートというか、芸術・芸能面のことにしぼってみるよ。
 江戸時代以前は、芸術という意味での「文化」は公家と武家に限られていて、祭り関連の芸能などを除けば、庶民の間で美術、文芸、音楽といったものが生まれることはあまりなかった。食料や労働を支配層に吸い取られていたから、貧しくて、食うだけで精一杯だったんだね。
 でも、戦がなくなり、心に余裕ができると、貧しいながらも食うこと以外の楽しみを見つけ、自分の技術や才能を磨いていくことに生き甲斐を見出す人たちが出てきた。
 まずは文芸。
 江戸時代は庶民の識字率が7~8割あったといわれているけれど、これは当時では世界一だろうね。
 戦がなくなったことで、一部の武士たちが寺子屋のような私塾をあちこちで開いて子供たちに読み書きを教えたことも大きい。
 ただ、まだ印刷技術が発達していなかったし、紙は贅沢品だったから、長い文章を書くことは難しかった。
 短い文の中に深い意味や遊び心を込めた俳諧、狂歌。そして後期にはかわら版のようなものが広まっていた。
 あと、ここで忘れてはいけないのは、江戸時代にはまだまだ「表現の自由」はなかったということ。

凡太: 表現の自由……ですか?

イシ: そう。時の政権批判みたいなことは一切できなかった。見つかったら厳罰に処される。私なんかはたちまち拷問の末に打ち首だっただろうね。

凡太: 江戸時代に生まれなくてよかったですね。

イシ: まあね。でも、今も基本的には変わらないよ。打ち首にはならないけれど、メディアはお上に忖度して、政府にまずいことは自主規制してしまうからね。

 でも、それじゃあ、つまらないものしか出てこない。
 庶民文化の魅力は、何といっても自由な発想や偶然性が想像を超えた形で作品に現れることだからね。それがなくて、ただの貴族文化の真似で終わってしまったら、技術の評価だけの閉ざされた世界になってしまう

凡太: そうなんですか? よく分からないですけど。

風刺と笑いのパワー

イシ: 反骨精神や笑い、遊びの文化は典型的な庶民パワーだね。貴族文化、権威主義の芸術にはない魅力だ。
 文芸では、川柳や狂歌といったものにそれが込められた。
 川柳にはしょーもないシモネタが多いんだけど、権威をからかうような作もある。例えば、

役人の骨っぽいのは猪牙(ちょき)に乗せ

 ……猪牙というのは吉原へ行く小船のことだ。融通の効かない役人は女を与えて接待すれば落ちる、という意味だね。

むつかしい顔をうっちゃる袖の下

 ……なんていうのも同じだ。

 ところで、川柳というのは人の名前だというのは知ってるかい?

凡太: 知りません。なんとか川柳という人がいたんですか?

イシ: 柄井(からい)川柳という人だ。
 貴族や武家が文化の中心だった時代から、連歌(れんが)という和歌の遊び方があった。
 和歌の上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を、違う人が交互に詠んでいくというものだね。
 その遊びが文学性とか趣きとかよりも、単純におかしい、笑えるといった傾向が強まっていったのが俳諧。
 最初の五・七・五を「発句(ほっく)」というんだけど、発句が独立したものが今の俳句の形式になったんだ。
 江戸時代になると、発句につながる「七・七」を先に与えられて、発句(前句)部分を考える「前句付(まえくづけ)」という遊びが流行った。
 例えば、
 「切りたくもあり切りたくもなし」

 というお題が出され、投稿者はその前に入れる五・七・五を考える。

 盗人を捕らえてみれば我が子なり

 ……とかね。
 これなんかは川柳色が強いけれど、中には、

 さやかなる月を隠せる花の枝

 ……なんていうのもある。これだとグッと文芸色が出てくるだろ。

凡太: ほんとだ! 詠み手の技量や性格が出るんですね。

イシ:   こうなってくると、後につく七・七はいらなくて、五・七・五だけで十分鑑賞可能だね。それが川柳や俳句のはじまりというわけ。

 この前句付に大勢が応募して優劣を競う「万句合(まんくあわせ)」というイベントを最初に主催して、点者(選者)となったのが柄井川柳で、号は無名庵川柳。人気を博して、この万句合は恒例になり、優秀作を集めた「誹風柳多留(はいふうやなぎだる)」という句集が毎年出版されるようにもなったんだ。

凡太: 今でもサラリーマン川柳とかシルバー川柳とか、毎年イベントになってますよね。その元祖ですか。

イシ: うん。まさに「庶民文化」だね。

 誹風柳多留は明和2(1765)年から天保11(1840)年まで167編出版されて、選者や評者には十返舎一九や葛飾北斎といった有名人も名を連ねている。
 寝ていても団扇のうごく親心
とか、
 孝行のしたい時分に親はなし
などの有名な句も含まれているよ。

 役人の子はにぎにぎを能覚(よくおぼえ)
なんていう、風刺精神のある句も健在だ。

 川柳の短歌版が狂歌だけれど、狂歌のほうが文字数が多い分、言いたいことが言える。権威へのからかい、政治風刺、あるいは自虐といったテーマが多い気がするね。

歌よみは下手こそよけれ天地の動き出してたまるものかは」 (宿屋飯盛)

 これは古今和歌集仮名序の

「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。(略)力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」

という一節を皮肉ってる。
 作者は古今和歌集を読むだけの教養がありつつ、貴族のかっこつけた文化を「何をたいそうなこと言ってるんだよ」と、鼻で笑っているわけだね。

 政治風刺の歌もたくさんある。有名なところでは、

白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき

 ……この「白河」は白河藩の藩主でもあった老中・松平定信のこと。質素・倹約を旨とした寛政の改革が厳しすぎて、賄賂が横行していても、失脚した田沼意次の時代のほうがまだマシだったな、という意味。

 でも、こうした反骨精神や権威への風刺が、徳川政権には危険視されて、弾圧もされた。
 寛政の改革では川柳や狂歌にまで規制が入り、誹風柳多留も修正を入れさせられたりしている。
 それでも庶民は負けてない。なんとかしてお上の規制をくぐり抜けて、庶民文化の精神を消さないようにと頑張るんだなぁ。

凡太: センセはそういうの好きなんですね~。

イシ: 私はしがない庶民だからね。

 政治風刺は幕末から戊辰戦争にかけてさらに痛烈になっていく。
 当時のことを、徳川政権を倒した新政府側の記録だけを鵜呑みにすると真相は見えない。庶民があのとき、どんな気持ちで社会の変化を見ていたかを知る貴重な資料にもなっているね。

朝敵になって慶喜(けいき)の名がわかる

 ……これは幕末のかわら版に載っている川柳だけれど、それまではもっぱら「公方(くぼう)様」と呼ばれるだけで名前など分からなかった徳川の将軍が、クーデターによって朝敵、つまり朝廷の敵だとされたことで、初めて慶喜という名前だったと知った、という皮肉だ。

庶民が見た幕末を伝える「風刺錦絵」

 こうした風刺を絵に込めたのが「風刺錦絵」と呼ばれるものだけど、多くの風刺錦絵にはお上の検閲を逃れるための高度な謎解きが込められていた。
 例えば有名なのはこれ↓ 「当世三筋のたのしみ」という題が付いている。三筋とは三味線のことだね。

「当世三筋のたのしみ」作者不詳(Clickで拡大)
 どんな謎解きが込められているか分かるかな?

凡太: 無理です~。まったく分かりません。

イシ: だよね。
 まず、玄関の上に表札があるけれど、「歌沢てん」と書かれている。
 師匠の女性の着物の柄も「天」だ。

↑↓お師匠さんの名前は「天」
 これは徳川第十三代将軍・家定の正室だった天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)のことだと謎解きされている。

凡太: ほんとですかぁ? たまたまじゃなくて?

イシ: まあまあ。続きを聞きなさいよ。

 その「天」さんの横に座っている女が持っている団扇には皇室の菊花紋。これは十四代将軍・家茂(いえもち)の正室・和宮(かずのみや)だね。二人とも大奥で暮らしていた。

 その二人の前で「どうで(どうせ)やけだよ こうなるからには親も主人もむかふづら(向こう側)」と、都々逸(どどいつ)で愚痴っているのは、着物に蝋燭の柄があるので、絵蝋燭が特産の会津藩。絵蝋燭=会津藩というのは他の錦絵でも一般化している。

 天璋院は会津藩に向かって「御ひいきヲ なにぶん御ねがひ申升(もうします)と言っている↓。


 その左側は「竹にすゞめとおまへとわたし なにがなんでもはなりや仙」という都々逸。
 「竹にすずめ」は出羽米沢藩上杉氏の家紋↓。

竹にすずめの米沢藩の紋
 この時代、米沢藩藩主は第12代上杉斉憲(なりのり)。斉憲は佐幕派で、徳川の命を受けて京都警護のために上洛もしている。
 慶応2(1866)年には加増されておよそ19万石の有力藩になっていたんだけど、徳川慶喜が大政奉還をすると、藩内では佐幕派と尊皇派が対立し、軍事奉行の千坂高雅(ちさかたかまさ)は、幕府に従うという藩主の意に背いて3000人の兵を率いて薩長軍に合流。弾薬の海上運搬などで協力した。
 その後、江戸城が無血開城して、薩長軍がさらに東北へと進んでくると、米沢藩は会津藩と新政府軍の間に入って調停を試みたが失敗し、奥羽越列藩同盟に加わって新政府軍の侵攻に備えた。ところが新政府軍からの恭順せよという働きかけを受け、最終的には庄内藩攻撃のために兵を出している。二転三転、あっちつかずこっちつかずの迷走だったんだ。
 そんなことも考えながら「竹にすゞめとおまへとわたし なにがなんでもはなりや仙」を読み解くと、「なにがなんでもはなりやせん」の意味が深いことが分かるね。「なにがなんでも」というのは会津藩が子供たちに叩き込んだ「什の掟」の結び「ならぬことはならぬものです」をも想起させる。会津藩のように頑なに抵抗し続けることは無理だ、ということだね。
 となると、真ん中で正面を向いているのは庄内藩かな。

 外を向いている男は「みんなこつちへはいりやァナ」と外にいる者たちに声をかけているんだけど、その下ではネコが
「おまへの心はふたまた大根 どちらがまことの本根やら」と、ネコのくせに都々逸を詠んでいる。
 となると、この男は尾張藩かな。幕末の尾張藩は16代藩主・徳川義宜と、隠居したが藩政の実権を握っていた公武合体派の徳川慶勝の二重支配体制だったから、それを「ふたまた大根」と詠んでいると解くことができる。

 いちばん下の男は「酒のかげんでうかうかいでゝあちらこちらをまはり升」という都々逸を詠んでいる。これは紀州藩、つまり第14代将軍・家茂(いえもち)だろう。
 着物には大きく葵の紋が入っている。「紀州葵(きしゅうみつあおい)」という紋だ。

↓紀州葵の紋

 家茂は第13代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、大老・井伊直弼ら南紀派に推されて13歳で第14代将軍となった。その後、幕府の公武合体政策によって皇女・和宮と結婚する。
 その傍らで和宮が「ほんにあいさんはよつぽどあがつたよ」と声をかけている。
 周囲に翻弄されながら、自分の意思には関係なく将軍になったことを「酒のかげんでうかうか出でて~」と詠んでいる家茂に、和宮は「あんたはよっぽどあがったよ(出世したもんだねえ)」と言っているけれど、背を向けたままで、心は冷めきっているということだね。

 画面の中央上のほうで、肘をついて横になって本を読んでいる男は徳川慶喜かな。本に書かれた文字は読みにくいが、「をれハ今ちとそうぞうしひから よく見て あとでやるよ」とある。
 国の命運がかかった大変な事態なのに人ごとのように本を読んでいる姿がまさに慶喜の性格を表しているが、庶民としては「それでも後で必ず事態を収拾してくれるに違いない」という願いを込めていたのかもしれない。
 上に書かれた都々逸は「さきは大ぜいわたひはひとり おもふおかたはふたごゝろ」で、孤立している慶喜の心情かな(↓)。

 一方、家の外に群れている人々に目を向けると、上のほうで「をぢさん はやくあすこへつれてっておくれよ」と言う子供を抱き上げているのが長州藩(着物に萩の葉が見える)。もちろん「担ぎ上げられている」子供は幼少の天皇。「あすこ(あそこ)」は江戸城、天下人のいる場所だね。幕府を倒して天皇の政治に戻してくれ、というわけだ。
 子供の着物に将棋の駒の柄があって「全」と書かれている。全ての駒が従う「王将」という意味かな。そこに「王」の字に似せた「会」も紛れ込んでいるけれど、これは会津藩のことだろうね。悲しいことに、天皇を最後まで守ろうとした会津藩は薩長軍に騙し討ちのような形でやられてしまい、悲惨な最期を迎えてしまうんだよね。
 そこに「ぼふや、こういふものをかしてやろうか」と水鉄砲を差し出している女?は荷物を背負っているので商人だろうが、特定するのは難しい。頭頂部を剃っているので、もしかして伴天連? 岡山藩だという人もいるけれど、ちょっとよく分からない。岩倉具視のように暗躍した公家かもしれないし、漠然と武器商人を描いているのかもしれない。
 口をあけてニヤついているのが薩摩藩(着物の絣模様はよく見ると下の横棒がかすれていて、「サ」という字のカムフラージュ?)。何か企んでいる顔だね。
 頬被りしている怪しい男は藤堂氏の津藩(手拭いに「當」の字が大きく書かれているが「トウ」から藤堂氏を指している?)。
 津藩は鳥羽伏見の戦いで幕府側だったのを裏切って幕府軍を背後から騙し討ちした。頬被りはその裏切りを表している。

 その下には「おれもこゝで一ばんやらかさう 遠い国からついうかうかと ぬしをたよりにたびすまい たちますたちます うまいぞうまいぞ」とある。
 九州勢を中心とした倒幕軍の胸中を表しているようにも思えるね。

 ……とまあ、三味線のお稽古の図に戊辰戦争前後の様子を「判じもの」として描き込んだ、手の込んだ錦絵だといわれている。(参考:森田健司・著、『明治維新という幻想 暴虐の限りを尽くした新政府軍の実像』国立歴史民俗博物館 WEBサイト

凡太: 難しすぎますよ。これで伝わったんですか? 読み解くほうにもかなりの教養や知識が要求されますよね。弾圧を恐れてストレートには描けなかったということですか?

イシ: それもあるし、これを買い求める客たちにクイズを解くみたいな楽しみを与えたということだね。そこに思いきり風刺と情報を詰め込んだ。そうした精神は現代ではどんどん薄まってしまった。残念だね。

絵画・彫刻の分野でも世界に誇れる作品が生まれた

凡太: でも、そうした庶民文化は、高度な技術や芸術性とはまた違うもののように思えます。

イシ: そんなことはない。貴族文化の定型から飛び出した自由な精神が生んだ芸術はたくさんあるよ。
 美術では伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)の作品なんかは江戸時代の美術の頂点じゃないかな。伝統的な画法や画題にとらわれず、自由な創造性と高度な技術を見事に両立させた作品を残している。「俺の作品は千年先にならないと理解されない」と自負していたそうで、まさに天才だね。

 彫刻でも、庶民パワーが爆発したような傑作はたくさんある。
 日光東照宮の彫刻や塗り物の修繕で全国から集められた彫り師や塗師は、雪に埋もれる冬には仕事ができないから、故郷に戻らず、麓の今市や鹿沼、宇都宮あたりに定住する者が多かった。そうした技術者に、地元の人たちが寺社の飾り物や祭りのときに出す屋台などの装飾を依頼したことで、東照宮の彫刻に勝るとも劣らない精緻な作品が今でも数多く残されている。
 屋台を彫刻で飾った彫刻屋台は、徳川政権の奢侈(しゃし)禁止令で禁止されたんだけれど、町民たちは「色を塗っていなければ奢侈(身分不相応な贅沢)にはならない」という理屈で、白木のままの彫刻屋台を作り続けた。色を塗らないことでむしろ彫刻そのものの技術を磨くようになり、むしろそれまでより精緻で凝った作品が生まれるようになった。

 彫刻といえば、江戸時代に生まれた庶民芸術の代表が石造狛犬かな。
 奈良・平安時代から公家文化の中には獅子・狛犬という彫刻文化があったんだけれど、庶民はそんなものは知らないまま数百年経過した。屋内に置かれる木彫ではなく、神社の参道や軒下に置かれる石の狛犬というのがものすごい勢いで奉納されるようになったのは江戸時代になってからだ。
 その形は公家文化の獅子・狛犬とは違って、実に様々な造形のものが生まれた。
 子獅子をつけちゃおう、とか、珠を持たせてみようとか、いっそ逆立ちさせたら面白いんじゃないか、なんてノリで、自由な発想がどんどん出てくる。庶民の素朴な祈りも込められて、公家文化、武家文化では生まれなかった独特の芸術が誕生したんだね。
 江戸時代に庶民の間で発展した狛犬芸術は、日本が世界に誇れる庶民文化だと思うよ。

凡太: 音楽はどうですか? 公家文化としての雅楽などは古くからあったと思いますけど、江戸時代に庶民の間から独自の音楽は生まれたんですか?

イシ: あ~、音楽かぁ……。これはちょっと寂しいかもしれないねえ。
 西洋では12音階を使った高度な音楽が古くからあったし、江戸時代に相当する18世紀にはあの天才・バッハがものすごい音楽を作り上げていたからね。
 瞽女(ごぜ)や琵琶法師がどんな演奏をしていたのかとても興味があるけれど、録音機がなかった時代だからねえ。
 「最後の瞽女」といわれる女性が1973年まで現役で、1979年には「選択無形文化財保持者」に認定されている。
「最後の瞽女」と呼ばれた小林ハル(1900年-2005)

凡太: ハルさんは、ものすごく貴重な歴史の生き証人だったんですね。

イシ: そうだね。
 ただ、おそらく、西洋音楽が入ってくるまでは、日本人の聴覚に12音階という音感は入り込んでいなかったと思う。その代わり、虫の声、鳥のさえずりといったものを「いとあわれなり」と感じる感性は持っていた。西洋人にはそれがないともいわれているから、それも可哀想だと思ったりもするよ。

 ただ、現代の日本では、そのどちらも、つまり西洋音楽的な12音階によるメロディの美学も、虫や鳥の声を愛でる感性もどんどん失われていると感じる。
 悲しいことだね。

『彫刻屋台図鑑01 鹿沼の彫刻屋台』

ユネスコ無形文化遺産に選ばれた鹿沼秋祭りに参加する全27屋台をB6判サイズにまとめ、フルカラーで詳細に紹介。彫刻屋台そのものを「アートとして」認識し直そうという意図のもと、個々の彫刻意匠に焦点をあてたユニークな写真集。収録写真画像約340枚。
(Version 2.0改訂版 増ページなどもあって、価格と送料を改定させていただきました)
鹿沼の彫刻屋台
ISBN978-4-910117-04-1  B6判・132ページ フルカラー 
オンデマンド 2255円(税込) 送料:330円
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『彫刻屋台図鑑02 宇都宮・今市の彫刻屋台と天棚』 

写真・文:たくき よしみつ 写真:鐸木郁子 
地元の人でも滅多に見ることがないという石那田、徳次郎の屋台(計12台)の他、今市の6台、その他、東下ヶ橋の天棚など、合計23台をフルカラー写真で収録。収録写真画像500枚超。類書がない貴重な資料。2018年12月、白沢南屋台を追加して4ページ増のVersion2に。
ISBN978-4-910117-05-8  B6判・136ページ フルカラー 
オンデマンド 2288円(税込) 送料:330円
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『新・狛犬学』

在庫切れが続き、復活が難しそうな『狛犬かがみ』(バナナブックス)に代わる、そして超える、「狛犬本」決定版。収録写真画像は約540点、すべてカラー。
第一章 狛犬とは何か 100万人の狛犬学
第二章 狛犬の種類
第三章 歴史に翻弄された狛犬文化
……それぞれ約50ページ構成で、狛犬の知識だけでなく、狛犬という不思議な文化が誕生した背景や、狛犬から見えてくる日本の近現代史の課題にも迫っていく。「庶民文化」としての狛犬を追求し、今までの視点では言及されなかった深層まで探ろうとする「」狛犬学。もちろん、画像を見ているだけでも単純に楽しめる。狛犬ファン必携の1冊。
『新・狛犬学』
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『あなたの音感は何型か? ──絶対音感の誤解』

たくき よしみつ・著 世にはびこる絶対音感の誤解を解き、今からでも遅くない自分の音楽世界を広げる方法を探る。
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