馬鹿が作った明治(05)

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台湾出兵というガス抜き策


凡太: 年表を見ると、征韓論で揉めている明治6(1873)年9月3日に「木戸孝允、朝鮮及び台湾征討に反対する」、翌年、佐賀の乱が勃発している最中の2月6日に「大久保利通、大隈重信らが台湾出兵を決定」とありますが、朝鮮だけでなく台湾を攻めるという話もあったんですか?

イシ: そうそう。それ、重要なので覚えておこう。
 実は明治4(1871)年に、宮古島の船が琉球王国の首里王府に年貢を納めた帰りに遭難して台湾東南海岸に漂着した後、乗っていた69人のうち54名が台湾原住民によって殺害されるという事件が起きていた。
 明治政府は清国に対して抗議して、賠償を求めたんだけれど、清国政府は「あそこは化外()の地であり、清国統治の管轄外である」と言って拒否した。
 そこで、鹿児島県参事・大山綱良は、このまま舐められていてはいかんと、政府に台湾出兵を提案する。その後、明治6(1873)年にも、日本船が台湾に漂着し、乗組員が略奪を受ける事件が発生して、台湾出兵の声が盛りあがった。
 そこにアメリカからの介入もあった。清国アモイ駐在のアメリカ総領事チャールズ・ルジャンドルが、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「台湾の野蛮人を懲罰すべきだ」と日本外務省に言ってきた。
 一方、イギリスの駐日大使パークスは、当初は日本の軍事行動に激しく反発した。

凡太: イギリスは反発したのにアメリカがけしかけたんですか? 理由はなんでしょう。

イシ: 武器を売りたいということがあったんじゃないかな。その頃は、ヨーロッパで強大な資本家集団となったロスチャイルド家に対して、アメリカでは石油利権でロックフェラー家が急速に富を蓄え始めていた。自分たちの国に被害が及ばないところで適度な戦をしてくれれば儲かる、ということだろう。

 ルジャンドルの「台湾の野蛮人を懲罰せよ」論は外務卿・副島種臣や内務卿・大久保利通に受け入れられ、ルジャンドルは外務省の顧問に傭われた。
 大久保としては、明治6年の政変でバラバラになった政府内の意見の調整や、相次ぐ士族の反乱に対してのガス抜き策として台湾出兵が使えると踏んだんだね。台湾なら朝鮮を相手にするより簡単に制圧できるという計算もあった。それで、最初の事件からは3年も経っているのに蒸し返したみたいな形だ。

 こうして政府は台湾出兵を決定。明治7(1874)年4月、大隈重信(参議)と西郷従道(陸軍中将)を担当として軍事行動の準備に入った。
 その後の展開は……、

明治7(1874)年
凡太: あっさり勝ったんですね。清国は黙って見ていたんですか?

イシ: 黙って……というわけじゃないけれど、清国との戦争にはならなかった。

明治7(1874)年
 こうして大久保の思い通りに事が進んだわけだ。
 オマケとして、清国が賠償金を支払ったことで、諸外国も日本の海外軍事行動を認めたことになり、琉球の所属も日本になった。それまでは清と日本(薩摩)の二重支配みたいになっていたのが、清から切り離されて日本に帰属することが承認された形だね。
 ここからの明治政府は、事実上「大久保政権」だな。

凡太: 政府を批判する動きは沈静化されたんですか?

イシ: いや、むしろ理論武装化された反政府運動ともいえる自由民権運動は活発化したし、贅沢三昧で身勝手なことを続ける政府首脳部や官僚への反感は強まったけれど、政府はそうした動きを徹底的に抑え込んでいく。
 明治8(1875)年6月には、讒謗律(ざんぼうりつ)新聞紙条例というのを制定して、政府批判を犯罪行為として取り締まれるようにした。

凡太: 批判しただけで犯罪なんですか?

イシ: そう。まず、讒謗律というのは、讒毀(ざんき)誹謗(ひぼう)の2つの語を合わせたものだ。讒毀は今で言う名誉毀損。誹謗は「誹謗中傷」という形で今でも使うね。悪い評判を広く知らせることだ。
 問題は、このときの讒謗律というのは、それが事実かどうかは関係なかったということと、対象が一般人なのか政府関係者や皇族などなのかで罪の重さがまったく違ったということ。はっきり言えば、一般人同士の誹謗中傷などどうでもよくて、ひたすら反体制、反政府的な批判に対して発動された。
 東京曙新聞の編集長・末広鉄腸は、讒謗律布告を批判する投書を新聞に掲載したという罪で2か月の禁固刑に処されている。

凡太: 完全な言論弾圧で、そっちのほうが犯罪ですね。

イシ: 新聞紙条例も同じ目的だ。許可なしでは新聞や雑誌の発行ができない。記事を書く者は本名と住所を明記しなければならない。反政府的な記事を書く記者は厳罰とされて、逮捕投獄される新聞記者が続出した。

 そんな中で、北では南下政策をとるロシアと樺太・千島の交換条約を結び、南では再び朝鮮に兵を出すという論が持ち上がってくる。

明治8(1875)年  まず、樺太だけれど、安政元年12月(1855年2月)調印の日露和親条約以来,日露両国民雑居の地とされ、帰属未解決のままだった。千島列島に関しては択捉島,ウルップ島の間を日露の境界として、それ以北をロシア領としてきた。
 明治政府は東北以北の問題には熱心にならなかったんだが、このままにしておくと樺太はロシアによって完全制圧され、日本にとって北の脅威が増すだろうということは言われていた。
 ここにはイギリス公使・パークスも口を出していた。
 パークスは、日本が樺太問題を放置しているとロシア領になるだろうと警告した上で、不安材料として抱えているよりも、ロシアに売却するか代地と交換するのがよいと進言した。
 これに対して副島種臣・外務卿は、「樺太の領有を宣言するか、樺太を南北に区分してロシアと二分して棲み分ける」という論を、黒田清隆・開拓次官は「樺太は放棄して北海道本島の開拓に全力を注ぐべき」というパークスの論に近い方策を提案した。
 副島はその後征韓論に敗れて下野したために、黒田らの樺太放棄論が優勢になり、ロシアとの交渉が進んだ。
 黒田に命を救われた形で新政府入りした榎本武揚が海軍中将・特命全権公使として、樺太全島をロシア領にする代わり、ウルップ島よりカムチャツカに連なる千島諸島を日本が受領する方向で動いた。
黒田清隆(1840-1900)
薩摩藩士。戊辰戦争では北陸戦線や箱館戦争で西軍参謀として指揮を執る。明治政府では北海道の開拓を指揮。日朝修好条規を締結。開拓使官有物払下げ事件を起こして指弾されたり、DVによる妻殺しや意味もなく船から北海道の海岸に向けて大砲を撃ち民間人を殺傷したなど、数々の暴力、酒乱事件で庶民から恐れられるも、明治21(1888)年に内閣総理大臣。満59歳で没。

 ただ、これによってすでに樺太や千島で暮らしていたアイヌなどは大打撃を受けた。日本国籍かロシア国籍かを選ぶことを強要され、国籍と居住国が異なる場合は国籍と一致する国の領土へ移住せよ、と決められたからだ。
 例えば、樺太にいたアイヌは日本国籍を主張しようと思えば樺太を去り本土や千島に移住するしかない。その逆で、千島列島北部に暮らすアイヌはロシアとの交流が深かったけれど、ロシア国籍を選べば千島には住み続けられないということになる。

 こうした不条理は現代においてもあちこちに存在する。その極端な例が、2014年からのウクライナ軍による自国ドンバス地域のロシア語話者系住民への虐待、爆撃などと、それが一因となって起きている2022年からのはロシアによるウクライナ侵攻などだろうね。
 日本ではそうした民族的な対立や矛盾をあまり感じないで暮らしてこられたかもしれないけれど、アイヌや琉球に目を向ければそうとはいえない。

凡太: アイヌの人たちは北海道内でも大変な苦労や差別を経験していますしね。

イシ: その通り。それまでは国境など関係なく生活できていたのに、無理な移住を強制され、そこに外から持ち込まれた病原菌が広まったりしたこともあって大勢が病死、餓死した。
 「国」という名目で権力者たちがエゴ、面子、意地、偏見といったものを剥き出しにすることによって、平和に暮らしていた人たちの生活が脅かされたり、人権が無視されたりする例はたくさんあったということは知っておかないといけない。そういう目で、朝鮮や台湾との問題も見ていく必要があるだろうね。

欧米にしてやられた以上のことを朝鮮にした日本

 さて、朝鮮とのことだけれど、再び持ち上がった、朝鮮を武力で威嚇して開国させようという第二次征韓論とでも呼べる論には大久保も反対せず、あとはどのようにやるかという方法論だった。
 朝鮮側としては、それまで日本との国交をひたすら拒否してきた大院君が失脚して、態度が軟化していた。日本の台湾出兵も見て、次は自分たちのところに来ると恐れていただろうね。
 そこで、朝鮮側からも協議の申し入れがあって、いろいろやっていたんだが、全然話がまとまらない。そこで日本は江華島というところに軍艦を出して、ちょろちょろと挑発をし、先に朝鮮から発砲させることに成功した(江華島事件)。
 そこからは黒田清隆の主導で一気に話を有利に進めることができて、治外法権や関税自主権なしの不平等条約である日朝修好条規を締結できた。
 具体的には、  ……というもの。
 日本にしてみればこれまた思惑通りの結果だけれど、いくつかの運のよさが重なっていた。
 一つは、朝鮮の宗主国である清国が日本との戦争を避けようとしたこと。清の後ろ盾のない状態で朝鮮は日本と戦うほどの力はない。
 さらには英米なども朝鮮の開国を望んでいて、自分たちの手を汚さずに日本にそれをさせられればいいと思っていた。
 しかしまあ、軍艦で脅して開国させるというやり方は、日本が開国したときの状況にそっくりだよね。朝鮮は日本のように大きな内戦になどならなかっただけよかったともいえるかもしれない。
 大久保はこれで一気に権力の座を固めた。政府全体としても味をしめたというか、その後の日清戦争への導火線に火をつけたような結果になった。

黒田清隆の「妻殺し」は事実か?

凡太: 樺太・千島の交換も江華島事件も、黒田清隆さんが話をまとめたんですね。

イシ: そう。彼を補佐して現場で動いたのが榎本だね。
 ただ、黒田は病的な酒乱で有名でね。ライバルといえる井上馨の家に酔っ払って侵入したり、泥酔して大暴れした結果、木戸孝允に組み伏せられて簀巻きにされて家に送り届けられたり、果ては、妻殺しとか民家に大砲ぶっ放したとか、生涯を通じてとんでもないスキャンダルにまみれている。

凡太: 妻殺し? なんですか、それは。

イシ: まずは民家に大砲ぶっ放した事件から。
 明治9(1876)年7月30日、当時36歳の黒田は札幌農学校の1期生一行と元軍艦の『玄武丸』という船に乗っていた。ところが船上で農学校のクラーク博士と公論になる。あの「boys be ambitious!」のクラーク博士だ。
 酒を呑んでいた黒田は怒りが抑えきれず、小樽の赤岩山にさしかかった頃、鬱憤晴らしに陸に向かって大砲をぶっ放した。その砲弾が漁師の民家を直撃。家にいた娘が死んでしまった。

凡太: ええ~? なんですかそれは。それでどうなったんですか。
イシ: 後日、黒田がその漁師に示談金を支払った。記録が残っているんだからこれは事実。今ならそれだけで、即、辞職だし実刑だろうね。
 もっとひどいのは妻殺し疑惑。
 これは明治11(1878)年3月28日のこと。泥酔して帰宅した黒田に、妻の(きよ)が、またあの芸者のところに行っていたんでしょう、と問い詰めた。
 カッとなった黒田は、日本刀で妻を袈裟懸けに斬り殺してしまった。
 家にいた者はすぐに同じ薩摩閥の大警視(警視総監)・川路利良(かわじとしよし)に知らせて後始末を依頼する。
 川路は知り合いの医者に頼んで「病死」という死亡診断をさせて事件を隠蔽しようとしたが、どこからか噂が広がって、團團珍聞(まるまるちんぶん)などの雑誌がそのことを報じて大騒ぎになった。
 そこで川路は清夫人の墓を掘り返させて「どこにも他殺の形跡などないではないか」と言い放ち、事態収拾に努めた。
 事実無根の噂を広めたとして團團珍聞は発行停止処分を受けた。

凡太: 結局、デマだったんですか?

イシ: 実際に殺してしまったという説とデマだったという説があるけれど、実際に殺してしまったという説のほうが有力みたいだね。ただ、斬り殺したのではなく殴り殺したとか蹴り殺したとか、いくつかの説がある。
 当時の人たちの受け止め方としても「薩摩閥の結束は妻殺しさえ隠蔽できるほど盤石なのか」と、恐れおののくのを通り越して、呆れてしまった、という感じだったんじゃないかな。
 こうした不正は現代でもある。犠牲になるのはいつも一般人や現場の下級役人など。私は知らん、秘書が勝手にやったことだ、みたいな茶番は毎年見させられているよね。
 黒田は後に明治最大の疑獄事件と呼ばれる「開拓使官有物払下げ事件」というのもやらかしている。
 国家予算の4分の1にもあたる1400万円を注ぎ込んだ開拓使の財産、つまり、土地、建物、工場、牧場、農場、船舶といった資財を、同じ薩摩閥の五代友厚が運営する関西貿易商会や同じ薩摩閥が運営する北海社に、わずか2万円で売り払ったという事件。
 これに関しても、今なお、五代は巻き込まれただけでいい迷惑だったとか、薩摩閥を憎む大隈重信が暴露した政府内の権力闘争による内紛だとか、いろいろいわれているけれど、ともかく藩閥政治の象徴であったことは間違いない。
 酔って人を殺してももみ消せるし、巨額の税金を無造作に使った挙げ句、仲間内で回して私腹を肥やす。権力者というのはそういうものだと、庶民は慣れきってしまうというか、諦めてしまう。その虚無感が、さらなる不正や怠惰を生む。

凡太: でも、当時のひどい政府への恨みや不満は、士族や農民を中心にして爆発寸前だったんじゃないですか。

イシ: そうだね。そうした怒りが西南戦争につながっていくんだけれど、それはまた回を改めようか。


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