人生の相対性理論(32)


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「心を持ったコンピュータ」というイメージモデル

 霊肉二元論は大昔からあって、宗教の形成にも深く関わってきました。
 いろいろなイメージモデルがありますが、代表的なのは、(脳を含めた)肉体だけでは生命は誕生せず、肉体に霊魂が宿ることで生命が生まれる。肉体の死後、霊魂は肉体から抜け出してどこかに一旦ストックされ、時空を超えて別の肉体に宿って新たな生命を形成する……といったものでしょうか。

 コンピュータ社会である現代では、もっと別のイメージが描ける気がします。
 肉体をコンピュータだとすると、脳はCPUや内蔵メモリであり、脳の記憶域はハードディスクやSSDなどに相当するでしょう。
 コンピュータはそれだけではただの計算機であり、操作する人がいて初めて機能します。
 オペレーターを「霊魂」にたとえるのは違和感があるかもしれませんが、話を分かりやすくするために、とりあえずここではそうしてみましょう。
 そうすると、私たち人間の肉体(脳も含めて)は、「霊魂」というオペレーターが電源を入れて操作を始めたコンピュータに相当します。
 ただし、コンピュータそのものではなく、オペレーターが操作して動かしている「コンピュータシステムの世界全体」が人間の生命活動、と考えてみてください。「霊魂の働きかけを得て、心や感情を持ったコンピュータ」です。
 心を持ったコンピュータによって音楽が作られ、文章が作られ、映像が生まれます。高性能なCPUや容量の大きなメモリを搭載していれば、高度な作品が作れます。
 コンピュータシステムから生まれてくる創造物・作品・データは、コンピュータにつながったスピーカーやディスプレイなどで初めて認識可能な形に変わります。
 つまり、心を持ったコンピュータである私たちが認識している世界は、コンピュータが生成した音声や映像や文章です。
 コンピュータは自分が創り出した音や映像や文章を認識できますが、その外の広い世界のことは認識できません。
 それでも常に、この音や映像や文章を創り出すという活動をしている実体は「心」というもので、自分は単なるシステムではなく、その「心」なのだと、なんとなく感じています。
 この状態では、私たちの「心」は私たちの肉体(脳や五感=コンピュータシステムの本体)以外に霊魂(オペレーター)が存在することを確認できませんが、なんとなく何かが私たちの「内」にあると感じます。でも、実際にはオペレーターは「外」にいて、肉体であるコンピュータシステムは、オペレーターが生きている世界の一部分にすぎません。
 肉体であるコンピュータシステムからは外の世界やオペレーター(霊魂)の存在は見えません。
 外の世界にいるオペレーターがねむくなってあくびしたり、作業に関係ない昨日のデートのことを思い浮かべてにんまりしていても分かりません。
 一方、現実世界に生きる人間が実際に知覚できる世界のすべては私たちの「外」にありますから、「心を持ったコンピュータ」のイメージモデルでは「内」と「外」が現実世界とは逆相になっているともいえます。

 このイメージモデルで肉体の死を考えてみましょう。
 肉体の死は、コンピュータシステムの停止を意味します。
 老朽化して内蔵ハードディスクに不良セクタができれば記憶も怪しくなりますし、CPUが誤作動すれば精神活動も狂ってきます。
 そしてついには動かなくなり、死を迎えます。
 このとき、「霊魂」であるオペレーターはどうするでしょうか。
 新しいコンピュータシステムを手に入れ、再び活動を始めるとしましょう。そのとき、バックアップを取っていなければ、動かなくなったコンピュータシステムに蓄積していたデータ(記憶や経験値)は移植できません。なんとなく自分の頭に残っていたイメージでシステムを再構築しようとするでしょうが、新しいコンピュータシステム(肉体)がそれまでのシステムより優れているかどうかは分かりません。OSの仕組みや考え方がまったく違うかもしれません。そうなると、今まで培ってきたものはほとんど再現できなくなり、ゼロからの再出発となるでしょう。
 次の人生を始めたときには、「前世」の記憶はすっかりなくなっているかもしれません。

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