人生の相対性理論(31)
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脳と「心」の相対性
私自身は、「心」が脳だけで形成されるものだとは、どうしても思えません。
しかし、一卵性双生児が著しく違った性格の人間に育っていくケースなどを「肉体に宿っている霊魂が違うからだ」と説明するのはとても抵抗があります。もしそうだとすれば、私たちは生まれたときにすでに自分の努力ではどうにもならないものを背負っていて、それは死後も変わらないということになりそうだからです。
人生(今私たちが生きている現実世界の中での生命活動)において、個人の人格や「徳」というものは、日々の生活・活動によって形成されていく部分が大きい、ということに異論を唱える人は少ないでしょう。
何かを達成するには努力が必要ですが、努力するか怠けるかを決め、身体に命じるのも脳の働きだと私は思っています。
また、人の話に耳を傾けず、自分勝手な思いこみに縛られて理解力を上げていけないのも、結局は脳の働きに問題があるのでしょう。
そうした「人間形成」と呼ばれるような部分を、脳とは無関係に「心」とか「精神」とか「魂」といった抽象的な言葉だけで説明するのは、一種の逃げだと思うのです。
もちろん、脳は生まれ持った才能や技量だけでなく、生まれた後に積んだ経験や外から与えられた刺激、教育などの要素で、大きく発達の仕方が変わってきます。だからこそ家庭環境の健全さや教育の機会均等といったことが重要視されます。
しかし、恵まれた環境に優秀な知能を持って生まれても、大量殺人や人種差別思想に走る人もいますし、家庭内暴力地獄の中で育ち、学校教育をまともに受ける機会も奪われたような半生を負わされても、人からは人格者と敬われる一生を送る人もいます。
これは「脳」だけでなく、その人が持っている別の要素によるものなのでしょうか?
仮に、脳とは別に、人間が認識できない要素(便宜上ここでは「霊魂」と呼ぶことにします)が存在しているとすれば、「心」は脳と霊魂の共同作業によって形成されるのでしょうか?
これは正直、私には分かりません。
さらに疑問に思うのは、もし、心(精神活動の基盤)が脳と霊魂の共同作業だとすれば、この二つの組み合わせには必然性があるのか、ということです。
あるとすれば、いわゆる「カルマ(前世からの業)」的な話になってきて、ますますやりきれません。
脳があってこその心であり、脳がなければ心も存在しないであろうこと、つまり、「心」が脳(の能力や蓄積された経験値)と相対することは自然に理解できます。
美しい絵を描きたいという気持ち(心)を持っていても、それを実現できる能力が脳に備わっていなければ達成できません。
この場合は、絵を描く能力に欠けている脳(肉体)に相対させた別の幸福感や人生を求めるしかありません。例えば、自分では描けなくても美しい絵をたくさん見たり、無名の画家を発掘して世に出す手伝いをするとか。
では逆に、脳は「心」と相対するのでしょうか?
美しい絵を描く能力がない脳(肉体)は、絵を愛せない「心」から生じるのでしょうか?
多くの人は経験的、直観的に「そうではない」と思うはずです。絵が好きだという心と、絵をうまく描く能力(脳)を持つことはイコールではありません。
分かりやすい例を出せば、自分の顔(肉体)や能力(脳)を好きではないという人はいっぱいいます。自己愛が基本とはいえ、自分の顔や能力を別のものと差し替えられたらもっと幸せになれると想像することはごく自然なことでしょう。
この場合、自分の肉体を「好きではない」と思うのは自分の「心」でしょうから、人は無意識のうちに「心」と肉体は別物だと考えているわけです。
正確にいえば、脳が肉体の一部だと理解した上で、肉体を支配して動かしている「心」こそが自分の実体だと認識しているわけです。
脳を含めた肉体がすべてだとすると、人は歳を取るにしたがって衰えていく、劣化していくだけということになります。それでは寂しすぎます。
しかし、肉体を「心」から分離して考えると、肉体の劣化に相対して、今なすべきこと、やれることを考え、常に新しい生き方をプロデュース、マネージしていくことができるのではないでしょうか。
古くても愛着のある車をメンテナンスしながらカーライフを楽しむように、自分の肉体の劣化の程度に相対した生き方を絶えず考えていく、バージョンアップしていくというイメージです。
そのために「肉体と心は別」と考えることは、生き方の工夫としてよいことだと思います。

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