人生の相対性理論(25)


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愛の相対性

 愛するという行為は一人では成立しません。愛する者と愛される者がいて、初めて成立します。
 自分の存在、「我思うゆえに我あり」の「我」だけは絶対的な存在ですが、別の言い方をすれば、自分の存在以外は絶対化できないということです。
 愛を絶対化する危険性というのは、自分ではない存在(愛する相手)を自分と同じように絶対的な存在にしてしまうことで、相対関係の緩さがなくなるための危険性です。

 誰かを好きになったとします。その相手も自分のことを好きになってほしいと心から願う。しかし、その相手は自分のことを好きになるどころか、自分が嫌いなタイプの人間を好きになってしまった。なんてことだ!
 ……と、ここで「苦悩」が生まれます。
 この苦悩は、愛した相手を絶対化することで大きくなり、ときには自分を破壊するまでに暴走します。
 それを防ぐ最良の方法は、自分以外の存在はすべて相対的なものである、という認識を取り戻すことです。
 自分のことを好きになってくれない相手の心を変えることは困難なので、まずは自分の心を見つめてみましょう。
 その人のことを好きだ、と思う自分は、その相手が現れなければそもそもいません。
 その相手が現れたのは「たまたま」であり、なんの必然もありません。神様があなたのために特別に用意してくれていた、なんてことはないのです。
 同じような魅力を持った別の人が現れていればその人を好きになっているはずですし、確率の問題はあるにせよ、これから先、もっと魅力的な人が出現することはいくらでもありえます。
 そう考えれば、人を愛すること、特に恋愛に関しては、なんの必然性も絶対性も存在しないことが理解できます。

「相思相愛」を疑ってみる

 次に、運よく自分が好きになった相手と相思相愛で、一緒になれたとしましょう。場合によっては、自分はそれほどでもなかったけれど、相手が自分のことを猛烈に好きになってしまい、勢いで一緒になった、というケースもあるでしょうが、きっかけや過程はあまり関係ありません。とにかく一緒になり、その後もうまくいき、ますます愛情を深め合った……とします。
 これは「愛で結ばれている」という一見強固な関係性のようでいて、逆に遊びやゆとりがなくなって脆さを秘めた関係性になっていくかもしれません。

 また、もしかすると相手のことを「自分のことを愛してくれる人」として愛しているのではないか? ということも考えてみるといいかもしれません。
 自分が相手のことを「好き」ではなくなったときと同様に、相手が自分のことを好きではなくなったら、その後も今まで通り相手のことを好きでいられるのか、愛し続けられるのか、ということです。
 自己愛は愛の基本ではあっても、自己愛を相手に投影して築き上げた愛は脆いものです。
 私はあなたのことを愛しているから、大切に思っているからこそこうなってほしい、こうあってほしくはない……という「愛し方」をしている人がよくいますが、これは明らかな間違いを改めさせる(例えば薬物依存から脱却させるといった)場合以外は、自己愛の裏返しではないでしょうか。

 よく、死ぬまで仲よく一緒に暮らした夫婦の話などが一種の美談としてとりあげられますが、私はその手の話は鵜呑みにしません。夫婦のうち一方が能天気で、もう一方が策士だったのかもしれない、とか、二人とも相手に言えないすごい闇を抱えたまま、にこやかに死んでいったのかもしれない、などと疑ってみます。
 最後までうまく結婚生活を続けられた夫婦ほど、お互い「愛する技術」が優れていたのでしょうから、単純な美談でなど説明できない裏のドラマや葛藤があったのではないか、と勘ぐるわけです。
 皮肉でいうのではなく、そういう夫婦は人生の成功者です。

 結局のところ、いい関係、長続きする関係というのは、愛というよりも、相手への「尊敬」が基盤となった関係です。相手の人格や人生を尊重し、傷つけたくない、壊したくない、不快にさせたくない、気持ちよく生きてほしいと思いやる気持ちがベースになっていれば、好きとか愛しているとかいちいち考えなくてもすみます。
 これは男女の恋愛や夫婦関係だけでなく、あらゆる人間関係においていえることでしょう。


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