人生の相対性理論(22)


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§4 「自己中心思想」から始める

我思うゆえに我あり

 なんだか話の内容が教条的というか、きれいごとになってきたんじゃないか、と感じているかたもいるかと思います。
 では、ここでまた少し視点を変えてみましょう。

 世の中に絶対的なものなどほとんどないということはすでに述べましたが、ひとつだけ間違いなくあるとすれば、それは「自己」です。
「我思うゆえに我あり」の「我」。
 個人と社会の相対性ということも述べてきましたが、どちらかを基準点に選ぶとすれば、間違いなく「個人」です。
 世の中がどれだけ理不尽でも、天変地異が襲ってきて思いもよらぬような不幸・不運に見舞われても、その中で生きている私やあなたという個人は、変えようがない、消しようがない「基準点」です。
 自分が可愛い。自分が大切だ。自分が好きだ。そういう「自己主義」を絶対的なものとして一旦認めてしまえば、ものの見方が定まってくるのではないでしょうか。
 きれいごとではなく、「まずは自分がここにいる」「その自分をいかに幸福に生かし、死なせるか」が絶対的な価値である──というところからすべての事象を「相対化」していくのです。

 いやいや、俺は違う。自分よりも子供や妻のほうが大切だ、という人もいるでしょう。
 もちろんそれはそれで結構です。しかし「子供や妻のほうが大切だと思う自分」がいて初めて、子供や妻が自分の存在より大切だ、ということができます。
 自分がいなければ、家族「のほうが大切だ」という相対化は不可能です。
 また、自分より家族のほうが大切だと思いこんでいる人が、往々にして自分の主義や嗜好を家族に押しつけて悲劇を招く例も少なくありません。自己をしっかり確立できなければ、他人を正しく愛すこともできません
 この「自己主義」は、自分に利することになればどんなことをしてもいいという利己主義とは違います
 ちなみに日本語の利己主義は「社会や他人のことを考えず、自分の利益や快楽だけを追求する考え方。また、他人の迷惑を考えずわがまま勝手に振る舞うやり方」(大辞林)というような意味で使われますが、これに対応するとされている英語の「エゴイズム」には、「我思うゆえに我あり」的な意味合い(哲学でいう唯我論、独我論)も含まれているようです。
 自分さえよければ他はどうなってもいいというわがままではなく、「まず自分のことを基準に考える」という意味合いでの「自己主義」は、ある意味「絶対的」な基準点になるかもしれません。
 言い換えれば、相対化の基準点を自分の幸福に置く、ということです。


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