人生の相対性理論(18)


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理不尽な境遇にどう向き合うか

 個人がいくら努力しても社会を変えることはほとんど無理……という結論で終わってしまってはあまりにも辛いので、ここで少し視点を変えてみましょう。

 人生において、個人が努力してもどうにもならないことはたくさんあります。
 戦争で死んだ人たちなどはまさにそうで、生まれた時代や環境によって自分の人生を制限されてしまいました。
 時代の波には個人の力ではどうにも抗えません。理不尽な時間を押しつけられ、場合によっては人生を終了させられることもあります。そうした運命にどう向き合えばいいのか、というのは、とても重い問題です。

 ミミズの研究で有名な動物生態学者・中村方子(まさこ)さんというかたがいます。彼女の父親は終戦直前に餓死に近い形で亡くなりましたが、亡くなる数日前に、当時 14歳だった娘にこんな意味のことを言い残したそうです。

「世の中の仕組みは、そのときにたまたま最高権力を得た人の資質によって大きく変わってしまう。そのこと自体はどうしようもない。しかし、個人が身につけた能力を他人が奪うことはなかなかできない。だから、自分に納得のゆく力を身につけて、自信を持って生きていくしかない。戦争が終われば世の中はまた大きく変わるだろう」

 このエピソードは彼女の著書『ミミズに魅せられて半世紀』(新日本出版社 2001)に書かれていますが、その本の中で彼女は、自分が味わった研究者生活の境遇についても触れています。
 戦後、大学に進学した中村さんは、1953年に当時の指導教官だったK氏の誘いで、都立大学理学部に助手補として入り、1年後に助手に昇格。その後25年間、同大学で助手として勤務しました。
 その間、専門研究よりも単なる雑用係としての労働のほうが多い過酷な勤務環境に耐えたり、K氏に自分の研究成果を盗まれたりといった辛酸をなめることになります。
 中でも「これだけは人間として許せない」として紹介しているエピソードが、枯葉剤の環境影響評価研究の話です。
 アメリカ軍が、ベトナム戦争において大量の枯れ葉剤をジャングルに撒き、ベトコン(解放民族戦線のゲリラ兵)殲滅をはかっていたとき、日本にも森林の下草管理を目的として枯れ葉剤の導入が進められました。
 枯れ葉剤導入を進めたい林野庁は、「枯れ葉剤散布は環境に悪影響を及ぼさない」というデータを出すようK氏に求めてきました。つまり、最初から結論が決められている「研究」の依頼です。
 K氏の下で働いていた中村さんは、この仕事への協力を拒否しました。結果、その後15年間、職場で助手(今の「助教」)から昇格することなく「干され」続けたというのです。

 努力しても報われない、それどころか、自分の信じる生き方を貫いたために苦しまされる人生というのはたくさんあります。
 自分が今そういう状況にあると思えるなら、いつか自由に動けるようになると信じて、命だけは確保する。じっと耐えて時間が流れていくのをやりすごす、サナギのような生き方しかないかもしれません。
 それでも、人間は昆虫とは違い、サナギのようにじっとやり過ごしている時間にも、学ぶことや技術を身につけることはできます
 中村さんの父親が言ったように、身につけた能力を他人が奪うことはできませんし、社会的に評価されずとも、その能力を少なくとも自分は知っています。
 能力は他人から評価されて初めて価値があるとすれば、自分にしか分からない自分の能力は虚しいばかりですが、サナギの時期には、自分の能力を自分の価値観、人生観に相対させてみることで、理不尽な状況をやり過ごすことができるかもしれません。


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