人生の相対性理論(17)


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社会は変えられるのか

 目の前にあるものが「絶対」ではなく「相対価値」であることを忘れてしまうと、社会全体が間違ったルールで絶対化されるおそれがある、ということについてはすでにお話ししました。
 では、そうならないように、社会を個人が変えることはできるのでしょうか。
 社会、あるいは時代の空気というものが一人一人の「マイルール」の集合体であるとすれば、一人一人が意識すれば社会や時代の空気を変えることができるのでしょうか。
 一人では無理でも、意識を高めた人たちが集まっていけば、結果として社会は変わるのでしょうか。
 できると思っている人たちがいるからこそ、さまざまな啓蒙運動や言論活動が起きます。ましてや今は民主主義の社会なのだから、選挙で政治を変え、世の中を変えることができるはずだと多くの人たちは主張します。
 もちろんその考え方は正しいでしょうし、社会生活をしていく基本精神でしょう。
 しかし、正直なところ、私は社会や時代の空気を個々の人の意識変革によって変えることはほとんど不可能だと思っています。
 サイレント・マジョリティの力が大きすぎることもありますが、なにより人間の歴史を振り返れば、そう思うしかない……と。

 啓蒙や教育は絶対に必要ですし、その効果も、もちろんあります。私自身、人生の中で、いくら虚しくなってもそうした努力を続けているつもりです。外に対してだけでなく、何よりも自分に対して。
 私は選挙権を得てから40年以上にわたり、一度も棄権したことはありません。仕事を干されるのを承知で、政権批判や社会の様々なタブーに踏み込んだ発言もしてきました。
 しかし、個人がどれだけ頑張っても、社会や歴史を根底から変えるまでの力にはなりえないだろうとも思っています。
 なぜなら、最終的に個々の人間をつき動かしているのは、理論や合理性ではなく、生存本能やもろもろの欲望だからです。
 前述のサイレント・マジョリティの行動様式(「行動しない」ことも含めて)も、生存本能や「面倒そうなことには関わりたくない」という欲望によるものです。
 本能や欲望の力は強大で、しかも能力のいかんや人柄のよしあしに関係なく誰もが持っています。
 頭のいい人たちも、長生きしたい、強くなりたい、支配したい、快楽を得たい、楽をしたいといった欲求で動いているので、この世界では強大な支配者が非倫理的で不合理なシステムを作り上げているという現実があります。
 これを倫理や正義や合理性でひっくり返すことは無理でしょう。
 政治家が政治資金を私的に使っていたことが発覚しても、政治資金規正法では金をどう使うかは規制していないので「道義的には問題があっても法には触れていない」などということが起きます。規制される側であるべき政治家が自分の都合のいいように法律を作っているのですから、どうしようもありません。
 実際、誰の目にも明らかに犯罪を犯している政治家や官僚が、罰せられることがないどころか、国民の支持を集め続けたり、権力者に気に入られて出世したりするのが今の日本です。
 それを正すには法律を改正するしかないのですが、世論は政治家個人を攻撃して少しだけ憂さ晴らしをするだけ。メディアも政治家個人の人となりを暴き立て、庶民の感情を煽るだけで、問題の本質には踏み込まない。そういうことの繰り返しで、少しも進歩がありません。
 結果、多少人が入れ替わったとしても、社会は変わりません。少し改善されると、しばらくして揺り戻しのように元に戻ってしまう。現在はこの揺り戻しによって、どんどん社会全体が劣化し、もはや簡単には立て直せない限界点まで来ているように見えます。


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