人生の相対性理論(16)


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「家族保守主義」の落とし穴

 今の日本が戦前の日本に似てきたと言われるようになってからすでにかなりの時間が経過しました。
 政治は一党独裁に近い状態で、憲法ではっきり否定されている集団的自衛権の行使もなし崩し的に立法化され、ついに「戦争ができる国」になろうとしています。
 この急激な変化を支えている人たちはどういう人たちでしょうか。
 ネトウヨと呼ばれる排外主義的な人たちの言動がよく話題になりますが、いわゆるヘイトスピーチを繰り返すようなグループがそんなに多くいるとは思えません。
 しかし、実際には何度選挙を重ねても、政治の暴走を止める方向に動きません。
 2016年の参院選挙後、ある人がフェイスブックで呟いた一言がとても印象に残っています。
「戦前は強烈な『プロパガンダ』があったが、今はそこまでいかない『空気』程度だもんなあ。それでもこれか……」
 古い言葉ですが「サイレント・マジョリティ」(声をあげない多数派)こそが、社会の空気を作りだしていることは間違いないでしょう。
 サイレント・マジョリティの行動様式を決めているのは「ウィルフル・ブラインドネス」「ウィルフル・イグノランス」(やっかいな問題を見ないこと、考えないこと、ないものとすること)です。
 さらに踏み込んでいえば、小さな子供を持つ親のほうが、子供を持たない大人よりも未来のことをきちんと想像できていないのではないかと感じることがあります。
 環境破壊、経済格差、核エネルギーの危険性と非合理、閉鎖的な村社会に埋没することによる八方ふさがりの人生……。そうした大きな負の要因・原因を直視せず、とりあえず親である自分が明日のご飯代、教育費もろもろの生活費を稼ぐこと、地域社会の中で「浮かない」こと、村八分にされないこと、といった日常の「空気感」を優先してしまう。「家族のために」と思って口を閉ざし、空気を読み続ける人たちが、昔からサイレント・マジョリティのかなりの部分を形成している気がするのです。
 親は「子供のため、家族のためにそうしている」と信じて行動する、あるいは行動しないわけですが、その結果、無意識のうちに深刻な問題の根源をうやむやにさせ、子供世代が将来その問題に対処することをさらに困難にさせてはいないでしょうか。
 目先の安心感を選ぶということは、子供の未来よりも、自分が今苦しまないほうを選ぶということになりかねません。もっとはっきり言えば、子供の将来より自分の余生のほうが大切だという深層心理が働くからではないでしょうか。
 こうした「日常家族保守主義」とでも呼べそうなものが、いつの世にも多数派を形成しているのだと思います。
 一方で、サイレント・マジョリティの対語であるノイジー・マイノリティのほうは、頭(理論)だけで問題が解決できると思いこみ、人間社会の細部を観察できていない傾向があります。
 自分の理想社会にとって不都合な真実を見極めず、理念だけで「これが正しい」と主張しがちです。
 マイノリティ(少数派)である上に、「突っ込まれどころ」を抱えてしまうと、サイレント・マジョリティからは、「ああ、あの手の連中ね」「関わらないほうがいい」「無視するに限る」と思われてしまい、いつまで経っても両者の間に有益な会話や議論、すり合わせが生まれません。

 小さな子供を持つ親の一部も、子供の将来を思うあまりに、問題の原因を一方的に決めつけて、それを排除・攻撃するノイジーマイノリティ化することもあります。その結果、小さな子供を持つ親たちの間で、激しい対立が生まれることも珍しくありません。

 そうした構造を熟知している頭のいい人たちにとっては、サイレント・マジョリティを操るための道具としてノイジー・マイノリティを利用できますから、ますます権力構造を維持しやすくなります。

 川内村の「獏原人村」に今も残っているマサイさんはこう言っていました。
理想ってさ、これが理想だと決めちゃうと、非理想があるってことになるじゃない。非理想は悪だ、って言っちゃってるわけじゃない。それってとても傲慢なことだよね
 これこそ、人生の相対性理論の真髄をついた名言だと思います。


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