人生の相対性理論(14)


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§3 地域や人間関係との相対性

 この話の最初に、人生という「時間」を相対化する、ということをいろいろな角度から説明しました。
 時間軸は「相対性理論」という言葉に馴染むと思ったからですが、人生の相対性理論には、縦軸の相対性と横軸の相対性があるように思います。
 時間軸の相対性を縦軸だとすれば、横軸の相対性とは地域や人間関係の相対性です。
 ここからは、地域や人間関係との相対性について考えてみます。

私の「持ち家」遍歴

 私は、20代の頃は何よりも社会的成功をめざしていました。
 金と名誉を手に入れ、自然豊かな土地に大きな一戸建ての家を持ち、そこに録音スタジオを作って一流ミュージシャンを呼んで自分の作品をレコーディングする ……そんな人生を思い描いていました。
 30代に突入して、それができないかもしれないと思い始めると、不幸を感じたまま一生を終えることに恐怖を覚え、とりあえず最低限の自由が得られる「家」を持とうと考えました。
 狭い賃貸アパート暮らしではデモテープの自宅録音もできません。しかし、金がなく、定収入もない私には高額の住宅ローンも無理ですから、できることは極めて限られています。
 ちょうど80年代の経済バブル期が始まるときで、毎日暇な私は、新聞の折り込み広告で、周囲の不動産価格が急に上がり始めたのをいち早く察知していました。
 急いで探し回って、川崎市麻生区にあった6軒続きの中古木造長屋の1区画を購入しました。
 斜面に建つ長屋で、入り口は二階。庭はありますが谷底のような地形で陽当たりは悪く、長屋なので両隣とは壁一つでくっついており、増改築するというわけにもいきません。しかも、建物は欠陥だらけで、窓が歪んでちゃんと閉まらないとか、一部の床は傾いていてビー玉が転がるような代物でした。
 そういう欠陥物件だったので、土地面積(約144㎡)・建坪(約80㎡)のわりには相場より安く(2330万円)売り出されていました。
 不動産的には欠点だらけですが、部屋は 10畳半のLDK、6畳×3、4畳半、3畳と6部屋あり、木造なので自分で好きなように手を入れられ、谷底のような斜面の細長い庭も、一時期(8年間)はそこでタヌキを放し飼いにしていたりして、それなりに楽しめました。
 6畳の洋間は書斎となり、多くの小説が生まれ、4畳半の和室は防音を自分で施して録音スタジオにして、そこから多くの音楽作品も生まれました。地味で問題だらけの長屋ですが、結果的に、そこは私の人生において重要な創作活動拠点となったのです。

 それまでの狭い賃貸アパート暮らしに比べれば一気に自由が広がり、最初のうちは幸福感を感じられたのですが、やがて、もしかしてこの長屋住まいで一生終わってしまうのではないか、という恐怖にとりつかれました。
 今は成功していないから、この長屋を拠点にして創作活動を続けるしかないが、一生このままでは切なすぎる。そんなことはあってはならない、と、まだまだ若かった私は心の底から思いました。
 しかし、首都圏で理想的な住環境を手に入れるには億単位の金が必要であり、それにはメジャーデビューしてヒット曲を出すなどの成功が必要です。成功は運の要素が大きいということも痛感していたので、一生日の目を見ないまま終わる可能性も認めないわけにはいきません。不幸を感じたまま死ぬのはとてつもない恐怖でした。

 そこで、新潟県の川口町というところに280万円で売っていた古家を購入し、二地域居住を始めました。
 しかし、12年かけてDIYでコツコツとリフォームし、豪雪地帯用の車庫も建て、冬でも暮らせるように小型の四輪駆動車も買ったところで中越地震。震源がまさに我が家のすぐそばでしたので、さすがに耐えられず、家は全壊。すべてを失い、その年の末に福島県の川内村という、さらに過疎の山村に新天地を求めることになりました。

↑DIYで外壁を貼っているところ
↓中越地震で見事につぶれた我が家


 川内村に得た家の周囲はすばらしい自然に囲まれており、それなりに楽しい生活をしていました。しかし、5年目には裏山に巨大風力発電施設建設計画が持ち上がって翻弄され、7年目の2011年には25㎞離れた福島第一原発が爆発して全村避難という憂き目に遭いました。
 私は今、日光市に住んでいますが、日光での生活を始めるために、川崎市の長屋も売り払いました。
 30代から50代の四半世紀で、3つの家を買って、直して、失うという経験をしたわけです。
 これについてはよく「何度も不運に見舞われて大変でしたね」と言われますが、今思い返せば、悲惨さはありませんでした。
 30代~50代という人生でいちばん大切な時期に、田舎暮らしのノウハウや、家を住みやすく直す技術や工夫、楽しさを経験できたからです。手を入れて直した家は失いましたが、そこで過ごした時間や経験は消えません。一生の宝になっています。
 家族を失ったり自分の健康を損なうのとは違って、家はたかだか「物」ですから、どうにでもなります。

不幸や不運を相対化する

 もちろん、苦労の末に手に入れ、何年もかけて手を入れた家が一瞬にしてつぶれてしまう、愛していた森や沢の上に、ある日突然放射性物質が降ってきて、山菜や自家栽培のキノコを食べることもできなくなる ……これは不幸以外の何ものでもありません。誰の目にも「絶対的な不幸」「絶対的な不運」と映るでしょう。
 しかし、津波で家を流され、家族を失った人たちや、人生をかけた農場や店を放射能汚染で滅茶苦茶にされた人たちの不幸に比べればなんでもありません。今はむしろ、自分も妻も怪我一つしなかったことや、その後の生活の転換がうまくいったこと、それによっていろいろな経験ができたことは幸福だと感じています。
 中越地震と原発爆発を経て、私は越後、阿武隈、日光と、3つの異なった環境での田舎暮らしを経験できたわけで、語弊があるでしょうが、人生全体から見れば「得をした」と思っているのです。
 不幸や不運をも、自分の人生全体と相対化させ、こういう点ではむしろ幸運だった、普通の人にはできない経験をして人生に厚みができたと考える「工夫」をする。そうすることで、それまで思ってもいなかった新しい価値が見つかり、幸福が開けてくることもあるのです。
 明らかな不運・不幸でさえ、その事象を絶対化してとらえず、人生の中で相対化してみれば、幸運・幸福に転換できるかもしれない、ということです。
 

人と地域の相対性

 原発が爆発して避難したことは、さすがに強烈な経験でした。
 この経験によって学んだことは極めて複雑で、その後の私の人生観に大きく影響を与えています。

 原発爆発で避難指示の出た地域では、住めなくなった土地から出て新天地を求める人たちと、仮設住宅や復興住宅で、今までの隣人たちと肩を寄せ合って暮らそうという人たちがいました。
 この行動様式の違いは、経済的インフラを戻すのが先か、人が戻るのが先か、という話に通じるものがあります。
 言い換えれば、人(個人)と地域(町や村=個人の集合体)との相対性において、基準点がどちらにあるのか、という違いでしょう。
 絶対音感の話の最後で、「相対性」を考えるときには「基準点」をどこに決めるかが重要であり、その「基準」は「絶対」ではない、ということを申し上げました。
 新天地を求める人たちと今までのコミュニティを捨てられない人たちとでは、社会と個人の相対性において「基準点」の置き場所が違っているのだと思います。
 新天地を求める人たちは、あくまでも基準点は個人(自分)の人生です。
 自分の残りの人生において、今まで住んでいた町に戻れる見込みがない、あるいは戻っても今までのような幸福で充実した人生が送れそうにないのであれば、当然、別の社会、地域との関係性(相対性)を新たに築くしかない、と考えます。
 個人と地域社会との相対性において、基準点は自分である、と。
 一方、それまでの地域の人たちとのつながりを第一に考えている人たちは、従来のコミュニティの壊れ具合、分散、離散の度合を最小限にする方向で行動します。
 自分という「個」は単体では存立せず、地域社会という集団の中で初めて存在可能であると感じているからです。
 基準点は地域社会のほうにあると無意識のうちに定めているので、地域社会が物理的に消えてしまうような事態が起きると、どうしていいか分からなくなります。
 これは役場の職員などにとっても同じです。
 役場の職員や自治体の長は、町を元通りに戻したいと悩むわけですが、少なくとも数十年は住めないであろう地域では、自分が生きている間に元通りの町に戻すなどということは無理でしょう。
 役場が守るべきものは土地としての町ではなく、その町で暮らしている人たちです。であれば、土地としての町を捨ててでも、その町で暮らしていた人たちの将来、これからの人生をサポートすることが、残された仕事なのではないかと思います。
 しかし、そう考える人が少なかったことも、今は知っています。

 これは別に誰かを責めたり、他人の生き方を否定しているわけではなく、そういう複雑で困難な現場を生で見たことが、今の自分の生活、人生観に大きく影響を与えた、ということです。
 どう生きるのが正しいのか、どんな生き方が幸せなのか──その問題はあまりに複雑で、軽々しく断じることはできない、と思っているのです。


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