日独伊三国同盟というレミングの崖
兵力補給の限界を超えた日本軍
イシコフ: 辻政信と服部卓四郎のことに言及したので、一部、戦後の話までいってしまったけれど、ここで一度、太平洋戦争開戦前までの流れをまとめておこう。
一つ、しっかりとらえておかなければならないのは、
1939年の時点で中国大陸における日本軍はすでに兵站や兵力維持の点で限界を超えていたということだ。
思い出してみよう。
日中戦争を拡大させる決定的なきっかけを作ったのは第一次近衛内閣のときだった。あのとき陸軍参謀本部作戦部長だった
石原莞爾は、「日中戦争を拡大させたら泥沼にはまる。近衛首相が南京まで行って直接蒋介石と話し合うべきだ」と主張した。しかし、広田外相にも近衛首相にもそんな気概はなかった。結局、中国への増員派兵がズルズルと決まってしまい、石原も左遷されてしまったんだったね。
この増員派兵計画は、当初は17個師団を、戦争が本格化したら33個師団まで増やすというものだったんだが、1年も経たずにその規模を超えてしまった。
1940年度の国家予算は、一般会計61億円の他に44億6000万円の臨時軍事費特別会計というのが追加され、初めて100億円を突破した。
国家予算に占める軍事費の割合は64%という極端な予算構成だ。結果、国内では米や電力の需給が逼迫し、1939年(昭和14年)8月30日発足の
阿部信行内閣では、物価・賃金統制令を発動。それが裏目に出て、ただでさえ足りていない物資が利益の高い中国占領地へ流れていくという現象が起きた。
凡太: 軍事費が国家予算の64%? 完全に「戦争をするための国」ですね。
イシ: それでも国民はまだ戦争フィーバーのまっただ中だったんだな。メディアにのせられて、南京や武漢を占領したときは、勝った勝ったとお祭り騒ぎをしていたんだから。
日本軍が中国で占領地を増やしていったことで、当然、米英との関係は悪化した。1939年5月には日本軍が
重慶爆撃を行い、
焼夷弾で市街地を焼き、市民約4300名が死んだ。また、日本が禁止した中国紙幣(法幣)がイギリス租界内では流通しているという理由で
日本軍がイギリス租界を封鎖したりもした。東京では反英デモが行われ、新聞社もそれを応援した。7月26日には
アメリカが日米通商航海条約を破棄。アメリカからの資源や機械類の輸入が即時に打ちきられることはなかったけれど、いつ打ち切られてもおかしくないような状況になっていた。
こんな状況を続けていては国がもたないし、危険極まりないということは、まともな知性と判断力を持っていれば分かる。そういうまともな頭の人間が軍部の中にもいたからこそ、汪兆銘との工作なんかも同時に進んでいたわけだね。
凡太: 今井武夫さんらが進めた
桐工作とかですね。
イシ: そうそう。日本に担がれて南京に政権を樹立した
汪兆銘も、日本軍の撤退を要求していた。これに応じる形で、1939年秋には、参謀本部内でも、とりあえず日本軍を黄河以北まで撤収させて、統治を汪兆銘に任せ、日本軍は満州に集結してソ連の侵攻を防ぐことに徹したらどうか、という撤収案も提出された。
しかし撤収案は陸軍省の
阿南惟幾次官らの「撤収など、今までの戦いで命を捧げた英霊たちのことを考えればとんでもない」という猛反対によって潰された。
阿南惟幾(1887-1945)
幼少時から、警察巡査として西南戦争で抜刀隊として従軍した父親に武術を叩き込まれて育つ。陸士(18期)在学中は乃木希典に憧れ、乃木宅も訪ねている。陸大に4回目の受験で合格し卒業(30期)。昭和4(1929)年、鈴木貫太郎侍従長の下、侍従武官に就任。昭和天皇との交流を深める。昭和8(1933)年、近衛歩兵第2連隊長。昭和9(1934)年、東京陸軍幼年学校長就任。昭和11(1936)年の二・二六事件では、生徒たちに「軍人として許されない過ちを犯した叛乱軍将校に残された道は切腹して陛下に詫びることだ」と訓示した。昭和12(1937)年、陸軍省人事局長。南京事件の視察に派遣され、現地の状況を知り「言語に絶する」と批判。その後、第109師団長に就任し、山西軍(国民党軍)、八路軍(共産党軍)を撃破し武功をあげる。昭和14(1939)年10月、陸軍省次官に就任。ノモンハン戦争で大打撃を負ったことの後処理を担当。辻政信や服部卓四郎の処分を甘く済ませるなどの失敗を犯す。
ヨーロッパでドイツと英仏が戦争状態になると、日独伊三国同盟の締結に反対する米内光政内閣を退陣させるため、陸軍大臣の畑俊六大将に辞職を進言。しかし、その後を継いだ第二次近衛内閣では東条英機陸相と意見が合わず対立。東条と決別すべく陸軍次官を辞任。第11軍司令官として中支戦線へ出るも、中国軍の「退却攻勢」にはまり苦戦。1942年7月、第2方面軍司令官としてチチハルに赴任。その後も戦局は不利に進む一方で、敗戦濃厚となった1944年12月、航空総監兼航空本部長への異動で東京に戻る。昭和20(1945)年4月の鈴木貫太郎内閣で陸軍大臣就任。全面降伏やむなしとする米内光政海軍大臣に対し、本土決戦に持ち込んでから講和に臨むべきという「一撃講和論」を主張して対立。8月15日未明、「一死以て大罪を謝し奉る 神州不滅を確信しつつ」という遺書を残して自決。58歳没。
1940年にも参謀本部作戦課から、1941年初夏に武漢地区からの撤退を始めて、その後も数万ずつ減らしていき、5年後には中国駐在の日本軍を30万程度にまで減らしたらどうかという建議書が出された。
「事変は
武力戦より政治経済戦に移行しており、
国家の財政経済を度外視した総帥(戦略)はありえない。現状のように
事変の目的が不明なままでは、多額の負担を強いている
国民に戦争の具体的な目的を明示できない。蒋介石の重慶政府が態度を変えることはないし、重慶政府への欧米からの援助も決して止まらない。かくなる上は、こちらから自主的な解決に徹する必要がある」といったことが書かれていた。
参謀本部が、もはや「戦争の目的が何なのか分からない」と告白しているに等しいね。
この時期、政界にも日本が軍事専政国家として暴走することに反対する人間が何人かはいた。有名なのは国会で「
反軍演説」をぶった
斎藤隆夫かな。
斎藤隆夫(1870-1949)
兵庫県出身。21歳のとき徒歩で上京し、徳島県知事・桜井勉の書生となる。その後、同郷の財界人・原六郎からの援助で東京専門学校(現・早稲田大学)行政科に入学。首席で卒業した後、アメリカのイェール大学法科大学院に留学。帰国後の明治45(1912)年に立憲国民党より総選挙に立候補し、初当選。以後1949年まで衆議院議員当選13回(落選は1回)。国会で雄弁をふるい、昭和7(1932)年3月、桜田門事件の責任を取り、犬養内閣は総辞職すべしとした演説。昭和10(1935)年1月(岡田啓介内閣)、「陸軍パンフレット」の内容と軍事費偏重を批判。昭和11(1936)年5月(広田弘毅内閣)、軍人の政治参加は不可とする「粛軍演説」。昭和13(1938)年2月(第一次近衛内閣)、「国家総動員法案に関する質問演説」。昭和15(1940)年2月(米内光政内閣)、「聖戦の美名に隠れ、目的なき戦争を続行することは、国家百年の大計を誤る、最大の罪である。国会は、為政者の追従の場であってはならない」と批判する「反軍演説」などが有名。「反軍演説」後、議員の多数投票にて除名されるも、昭和17(1942)年総選挙で軍部や内務省からの妨害をはねのけて兵庫5区でトップ当選。戦後は日本進歩党の発起人に名を連ね、第一次吉田茂内閣で国務大臣に就任。その後、民主党の創立に参加、離党、民主自由党の創立に参加。1949年に79歳で死去。
凡太: 軍に歯向かえば殺されかねない時代に、斎藤隆夫さんはずいぶん勇気のある議員だったんですね。
イシ: 彼の演説の内容を細部まで見ていくと、ちょっとトンチンカンなことも言っているんだけれどね。例えば、1936年の「粛軍演説」では、
「世界はナチスドイツを筆頭に、青年教育に力を入れて青年の労働奉仕団のごとく国への奉仕を重視しているのに、日本では相変わらず詰込主義で、精神主義、人格主義を軽視しているのはいかん。文部大臣は『学問偏重の教育を廃して、人格主義の教育をする』と言いながら、少しもできていない。内閣全体政府全体の圧力をもって学制改革にあたるべきである」とか「日本の裁判は時間がかかりすぎる。暗殺事件などの重大事件は、諸外国では1、2週間で死刑宣告して即執行しているではないか」……といった、危なっかしい発言も含まれている。
しかし、
軍人が政治に関与してはいけないという主張はまさにその通りで、
あの時代の根本的な「システムの誤り」を指摘していた。
「反軍演説」は1時間半にわたる長いものだったけれど、最も重要な点を抜き出せば、
- 政治家の責務は、国民に犠牲を要求することにあるのではない。まず、自らが真剣に、国事に当たる覚悟を国民に示すことだ。
- 国会は為政者の追従の場であってはならない。憲法が保障する言論の自由は、政府の不正を正々堂々と攻撃するための国民の盾である。
- 真の愛国心とは、盲目的な服従ではなく、国家の誤りを恐れず指摘する、勇気ある批判にこそ宿る。
- 国民は、犠牲を忍ぶだろう。だが、欺かれてはならない。すべての政治家は、国民の生命と血の重みを骨身に刻まねばならない。
- 聖戦の美名に隠れ、目的なき戦争を続行することは、国家百年の大計を誤る最大の罪である。
- 国民の犠牲を放置し、国際正義、道義外交、共存共栄、世界平和のような雲をつかむような文字を並べ、千載一遇の機会を逃し、国家百年の大計を誤るようなことがあれば、現在の政治家は死してもその罪は消えない。
……といった部分だろう。
凡太: 素晴らしいですね。
イシ: しかし、斎藤と同じ民政党所属の衆議院議長・
小山松寿は、
演説の中の軍部批判にあたる1万字を議事録から削除させた。翌日には民政党の常任顧問・小泉又次郎や主任総務・俵孫一が斎藤に離党勧告を突きつけた。
斎藤はこれらに抗議し、従わなかったんだが、議会では議員除名処分を賛成296、反対7(棄権・欠席など144)で決議して、斎藤は議員失職となってしまった。圧力をかけた勢力の中には政友会中島派、社会大衆党も入っていた。
凡太: 議会政治の自殺ですね。
イシ: まったくその通り。もはや議会は軍部を担ぐ御神輿に成り下がってしまったんだな。
ちなみにこのときに議事録から削除された1万字について、2025年9月、石破茂政権下で復活させる検討をしていることが分かった。
それについても「余計なことをするな」とか文句をつけている人たちがいる。「反軍演説」の内容について、当時の国民からは大きな反発は出なかったことを思えば、今の日本のほうが危険な土壌が形成されているのかもしれない。
「反軍演説」の反響を伝える読売新聞(1940年2月3日)
日独伊三国同盟
イシ: 日本ではこの頃、
日独伊三国同盟の締結に向けて動いていた。これはその後の日本の命運を決定づけた重大な過ちだった。ここでもう一度、そこに至るまでの流れを簡単にまとめておこう。
- 1929年11月 ソ連でスターリンが権力を握る
- 1931年9月 柳条湖事件。満州事変始まる
- 1932年5月 五・一五事件。犬養首相らが殺害され、軍部の横暴がまかり通るようになる
- 1932年7月 ドイツでナチスが第一党に。翌年1月にヒトラー内閣成立
- 1933年3月 日本が国際連盟を脱退
- 1933年10月 ドイツが国際連盟を脱退
- 1934年9月 ソ連が国際連盟に加盟
- 1935年3月 ドイツが再軍備宣言
- 1935年10月 イタリアのムッソリーニ政権がエチオピア侵攻
- 1936年2月 二・二六事件
- 1936年7月 スペイン内戦始まる
- 1936年10月 スペイン戦争で協力したドイツとイタリアが提携を表明
- 1936年11月 日独防共協定締結
- 1937年7月 盧溝橋事件。日中戦争始まる
- 1937年11月 日独伊防共協定締結
- 1937年12月 イタリアが国際連盟を脱退
1930年代に日本は中国大陸で軍拡路線を進めて日中戦争が泥沼化。ドイツはヒトラーのナチスが政権をとり、オーストリアを併合するなどして英仏を刺激。イタリアはムッソリーニが独裁体制を固めてエチオピアを侵略。ドイツとイタリアはすでにスペイン戦争で提携していて、そこに日本が誘い込まれるような形で「反共」を目的として対ソ戦略を睨んで日独伊防共協定を結んだが、この時点ではまだ軍事同盟とは言えなかった。
- 1937年12月 日本軍が南京を占領。南京虐殺事件
- 1938年1月 近衛文麿内閣が「国民政府を相手とせず」声明
日中戦争が激化。日本は南京攻略後、補給線が伸びきって兵站問題が限界を超える。重慶に逃れた蔣介石国民政府と中国共産党軍が根強く抵抗を続け、泥沼化。日本軍内では打開策として
米英の「援蔣ルート」遮断と石油やゴムなどの資源確保のための「南進論」が強まる。
一方ドイツではヒトラーがオーストリア併合を成功させたもののイギリス、フランスが強く非難。チェコスロヴァキアの激しい抵抗にもあって領土拡大が行き詰まっていた。そこで、
英仏が軍事介入してこないよう、東南アジアの英領シンガポールや仏領インドシナへの侵攻を狙っている日本を味方につける策に出る。日本を英仏米への防波堤にするため、ソ連を仮想敵国としている
日独伊防共協定を強化させた軍事同盟を結ばせようと、
リッベントロップ外相に命じて駐独日本大使・
大島浩を取り込みながら、秘密裏に
松岡外相と日独防共協定強化交渉を進めた。松岡や陸軍の中堅幹部らは推進しようとしたが、
海軍上層部の米内光政、山本五十六らは反対した。
- 1938年3月 ドイツがオーストリアを併合
- 1938年4月 近衛内閣が国家総動員法を公布
- 1938年9月 ミュンヘン会談。英(チェンバレン)・仏(ダラディエ)・独(ヒトラー)・伊(ムッソリーニ)の4国代表による会議で、英仏はドイツの勢力拡大を一定程度認めて平和を維持しようとする「宥和政策」を選択
- 1939年4月 イタリアのムッソリーニ政権がアルバニアを併合
- 1939年5月 ノモンハン戦争。満州、モンゴル国境で日本軍とソ連軍が交戦。9月に停戦
- 1939年7月 アメリカが日米通商航海条約の破棄を通告
- 1939年8月 独ソ不可侵条約調印
オーストリアを併合したナチスドイツはチェコスロヴァキアの解体やポーランドの併合という領土拡大路線を露骨に押し進めた。それに対して、イギリスの
ネヴィル・チェンバレン(保守党)内閣は、
ドイツの行動をある程度黙認することでスターリンのソ連を牽制しようという狙いから「
宥和政策」を打ち出した。チェコはイギリスにとってはほぼ関係のない小国だし、そんなところにイギリスの若者を兵として送り込むなどありえないということでもあっただろう。
これでヒトラーは自信を深め、さらに領土的野心を剥き出しにしていった。
一方、ソ連の
スターリンはミュンヘン会談でのイギリスの宥和政策に強い不信感を抱いた。
スターリンはヒトラーが東ヨーロッパに領土を広げようとしていると警戒していたが、ミュンヘン会議にはソ連も、ドイツとの紛争の当事国であるチェコスロヴァキアも呼ばれず、イギリス、フランスだけで勝手にドイツへのズデーテン併合を容認するような「ナチスドイツ野放し策」を決めてしまった。この翌年にはソ連は満州国境で関東軍とノモンハン戦争を戦うことになり、そちらにも戦力を割かれていたので、ドイツと戦うのは不利と考え、
ヒトラーに接近し、1989年8月、
独ソ不可侵条約を締結した。
英仏はソ連を警戒してドイツを対ソの壁にするためにドイツへの「宥和政策」をとったのに、逆にソ連をドイツに接近させるという皮肉な結果になった。
ドイツと接近していた日本は、ドイツが突然ソ連と不可侵条約を結んだことに困惑し、日独伊三国同盟推進論の勢いが一時的に止まった。
- 1939年9月 ドイツ軍がポーランドに侵攻。第二次世界大戦始まる
- 1939年9月 ソ連軍もヒトラーとの密約に基づきポーランドに侵攻
- 1939年11月 ソ連軍がフィンランドに侵攻
- 1939年12月 国際連盟、ソ連を連盟加盟の独立国に対する侵略行為として除名
- 1940年3月 日本は汪兆銘に南京国民政府を樹立させる
- 1940年4月 ドイツ軍がデンマークとノルウェーに侵攻
- 1940年5月 ドイツ軍がオランダ、ベルギーに侵攻
- 1940年5月 イギリス、チャーチル内閣に交代
- 1940年5月 日本軍が本格的な重慶爆撃を開始。9月まで続く
- 1940年6月 イタリアがイギリス・フランスに宣戦
- 1940年6月 ドイツ軍がパリを占領
- 1940年6月 ナチスドイツ、アウシュヴィッツ収容所開設
- 1940年6月 フランスが降伏。翌日、ド・ゴールが抗戦声明
- 1940年7月 ソ連がかつてロシア領だったバルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)に侵攻
- 1940年7月 第二次近衛内閣成立。「大東亜共栄圏」を喧伝
- 1940年8月 ソ連がバルト三国を併合
- 1940年9月 日本軍が北部フランス領インドシナに進駐
- 1940年9月 日独伊三国同盟締結
- 1940年10月 第二次近衛内閣下で大政翼賛会結成
ヨーロッパでドイツ軍が攻勢を続け、フランスが降伏すると、日本国内では外務省、陸軍の親ナチスドイツ派が勢いを得て、南進論が再び盛りあがった。新聞も「
バスに乗り遅れるな」を合い言葉に、日本も積極的に軍事活動すべしと煽った。
陸軍の強硬派は、そのためには
アメリカの介入を抑えるため、ドイツ、イタリアと手を結ぶ軍事同盟を結成したいと考え、
三国同盟や南進論には否定的だった米内内閣を倒すべく、陸軍大臣・
畑俊六を辞任させて内閣総辞職に追い込んだ。
その後を受けた
第二次近衛内閣で、ついに
日独伊三国同盟が締結された。
……と、こういう流れだ。
南進論には近衛首相も同調し、外相になった
松岡洋右も、ソ連も加えた日・独・伊・ソ4か国同盟を主張していた。
フランスを攻略したドイツのヒトラー政権は次の攻撃目標をイギリスに定めて空爆を始めていた。でも、チャーチル率いるイギリスの抵抗も強くて苦戦していた。ヒトラーとしてはとにかくアメリカがヨーロッパ戦線に加わることがいちばん怖い。それを阻止する意味でも、日本がアジアで暴れてくれていればアメリカをそっちに引きつけておける。
イタリアもエチオピア侵攻やアルバニア併合で各国から非難を受け、孤立していたから、仲間がほしい。
しかし、日本がドイツ、イタリアと手を組めば、当然アメリカが黙っているわけがない。
アメリカからの物資輸入、特に石油が途絶えれば日本は戦争どころか、生活ができない。そんな明々白々なことを無視して、ドイツ、イタリアと手を組むなどという博打をしていいはずがない。
昭和天皇も「しばらく独ソの関係を見極めた上で締結しても遅くないのではないか」と懸念したが、近衛が「ドイツを信頼して大丈夫です」と説き伏せた。
凡太: 改めて振り返ると、
近衛首相の責任というのは大きいですね。
第一次近衛内閣のときに日中戦争を拡大させ、第二次近衛内閣では日独伊三国同盟を締結してしまった。
イシ: その通りだね。優柔不断とか、乗せられやすいとか、世論に引きずられるとか、いろいろな評価があるけれど、やったことは取り返しがつかないほど大きな失策だ。
近衛は、ドイツが強くなったのはナチスの一党独裁体制になったからだ。日本も同じように一国一党の挙国一致体制を作らなければいけないと考えていたと思う。
敗戦後に自殺する直前に書いた手記には、「内閣は統帥に操られる弱い造作にすぎなかった。既成政党とは異なった国民組織、全国民の間に根を張った組織と、その政治力を背景とした政府が成立して、初めて軍部を抑え、日支事変の解決が出来るとの結論に達した」なんて書いているけれど、実際にやったことを見れば、どこが「軍部を抑え」なのかと言いたくなる。軍政や独裁政治の怖ろしさを分かっていないし、国民を「同じ思想・意志を持った集団」だと見ている一種の貴族的妄想思想とでもいうのかな。とにかく、政治に関わってはいけない人だったね。
松岡の読みの甘さも責められるべきだ。
ドイツ軍の進撃ぶりが凄まじいので、すっかり幻惑されたんだろう。ドイツはあの大英帝国に敢然と空爆している。時代は変わる。ヨーロッパの覇権はイギリスからドイツに渡るだろう、と思い込んだのかな。
松岡は、日独伊の3国にソ連も加えて4国での軍事同盟が組めれば、大国アメリカも簡単には手を出せないはずだと読んでいたようだけれど、それも根本はドイツがヨーロッパ戦線で勝利することが前提になっている。結局は「勝ち馬に乗る」という姑息な考えだ。この後、ドイツとソ連が凄絶な戦闘を始めることなど、到底予想できなかっただろう。
ドイツがヨーロッパの覇王となり、日本はアジアの盟主となるのだという妄想は、近衛や松岡だけでなく、軍部、政財界、一般国民の間に広く浸透していた。その妄想が一種の信仰のようになって、国民の多くが「この聖戦のためにはどんな苦難にも耐えよう」と思い込んでいったんじゃないかな。
凡太: 日独伊三国同盟というのは、軍部や政府の一致した政策だったんですか?
イシ: いや、そうじゃない。海軍の中では、
米内光政、山本五十六、井上成美は三国同盟に終始反対の立場で、反英米・親独の世論を煽っていた当時のメディアからは「海軍省の左派トリオ」なんて呼ばれていた。
山本五十六(1884-1943)
新潟県長岡出身。海兵(32期)、海大(14期)卒業。大正8(1919)年、アメリカ駐在を命じられ、ハーバード大学に留学。渡米前から「ナショナルジオグラフィック」を購読するなどしていた。アメリカでは油田、自動車産業、飛行機産業などを精力的に見学。流通・経済機構の先進性を学び、大きな影響を受ける。大正10(1921)年帰国後、軽巡洋艦「北上」副長、海軍大学校教官を歴任。大正11(1922)年、井出謙治大将と共に欧州・米国を視察。大正13(1924)年、霞ヶ浦航空隊教頭兼副長就任。以後、海軍の航空隊充実に努める。大正14(1925)年12月、駐米大使館付武官として渡米。昭和3(1928)年に帰国し、軽巡洋艦「五十鈴」艦長就任。翌、昭和4年、ロンドン軍縮会議に次席随員として参加。軍縮案に強硬に反対したことで、以後、海軍内で艦隊派と目され、出世していく。昭和8(1933)年、第一航空戦隊司令官。昭和10(1935)年12月、海軍航空本部長。翌年の二・二六事件では反乱に賛同する海軍青年士官を一喝。重傷を負った鈴木貫太郎侍従長に医師を手配。米内光政と共に岡田啓介総理の救出にも関わる。年末には海軍次官に就任。日中戦争初期にはパナイ号事件の処理など、外交問題の解決に奔走。昭和14(1939)年の海南島軍事占領には反対したが抑えきれず。日独伊三国同盟の締結には米内光政、井上成美らと共に最後まで反対したことで、軍部内で暗殺の動きも出た。昭和14(1939)年8月30日、本人は固辞したが、連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任。アメリカを敵とすることは無謀と知りつつ、航空機を中心とした対アメリカ戦の戦略を練る。
昭和16(1941)年12月8日、真珠湾奇襲攻撃を指揮。続くマレー沖海戦でも成功したが、翌年6月のミッドウェー海戦で大敗。昭和17(1942)年4月18日、前線視察のため移動中、ブーゲンビル島の上空で撃墜され死亡。59歳没。
井上成美(1889-1975)
宮城県仙台市で旧幕臣の11男として生まれる。海兵(37期)卒業後、海軍砲術学校普通科に進み、山本五十六から兵器学を学ぶ。海軍大学校専修学生卒業。大正8(1919)年、スイス駐在武官着任。ドイツ人教師のもとでドイツ語を習得。大正10(1921)年、希望してフランス駐在となり、ここでもフランス人教師につき、フランス語を修得。昭和2(1927)年、在イタリア日本大使館附としてローマに着任。イタリアにはいい印象を持たず、その後の日独伊三国同盟に反対の立場につながった。昭和10(1935)年、横須賀鎮守府参謀長就任。横須賀鎮守府司令長官となった米内光政の下で働き、米内の信頼を得る。昭和12(1937)年、海軍省軍務局長兼将官会議議員に就任。海軍大臣・米内光政、海軍次官・山本五十六と歩調を合わせ、新聞記者らから「海軍省の左派トリオ」と呼ばれる。日中戦争では重慶爆撃などを推進。昭和15(1940)年10月、海軍航空本部長就任。太平洋戦争前には「戦艦無用論・海軍の空軍化」を説いた「新軍備計画論」を提出。日米開戦には反対する立場だったが、第四艦隊司令長官に補され、旗艦鹿島でトラック諸島に向かう。真珠湾攻撃をトラック島で知り、ショックを受ける。以後、ラバウルなど南東方面の戦闘を指揮。1942年10月に海軍兵学校長に補され、内地へ帰還。1944年夏、東条内閣が倒れて小磯国昭内閣になった際、海軍大臣に就任した米内光政に説得されて海軍次官に就任。米内に「日本の敗戦は確定的なので、内密に終戦工作を始めたい」と具申。海軍省人事局の高木惣吉少将に命じて海軍内で戦争終結工作をする。米内内閣が総辞職した後も、鈴木貫太郎内閣で米内が海軍大臣に留任できるように工作し、渋る米内を説得して米内海相留任を実現させた。以後、米内を「一日も早く戦をやめましょう。一日遅れれば、何千何万の日本人が無駄死にしますよ」と責め立てて終戦工作を進めた。敗戦後は進駐軍と英語で折衝。その後は三浦半島の僻村に隠棲。貧困生活の中で、子供たちに英語を教える塾を開いた。横須賀の旧海軍料亭「小松」のオーナーが貧窮ぶりを知って、従業員への英語授業を依頼するなどして援助した。1975年12月15日、86歳で死去。
↑英語を教える井上成美
高木惣吉(1893-1979)
熊本県人吉市出身。家が貧しかったため、高等小学校卒業後は職に就き、通信教育で独学して海兵(43期)に入学。海大(25期)首席卒業。持病があり、海上勤務経験は少ない。太平洋戦争半ばで海軍省教育局長に就任。海軍には思想、外交、経済など幅広い分野で思索を深める姿勢が欠けているとして、学者、メディア関係者、実業家らを集めた思想懇談会、外交懇談会、政治懇談会、総合研究会、経済研究会、太平洋研究会、戦時生産研究会、対米研究会、法律政策研究会などから成るブレーントラスト構築を提言。メンバーには戦後も各界で活躍する著名人が多数含まれていた。また、早期終戦のためには東条内閣を倒すしかないと考え、東条暗殺計画を練るが、実行する前に東条内閣総辞職となる。その後の小磯内閣の海軍大臣となった米内光政、海軍次官に就任した井上成美から終戦工作の密命を受け、熱海の藤山愛一郎邸を拠点として終戦工作に奔走。水面下での工作は鈴木貫太郎内閣総辞職まで続いた。戦後は公職追放を経て、「辰巳亥子夫」のペンネームで軍事評論家として活動。海上自衛隊幹部学校の特別講師も務めた。1979年、85歳で死去。
凡太: 新聞記者たちから「海軍左翼トリオ」などと呼ばれた3人は、三国同盟にも対米戦にも反対だったんですね。
イシ: あの頃の新聞は、戦争拡大を抑えようとする人間をまとめて「左翼」と呼ぶ神経を持っていたんだね。そういう新聞が「聖戦」だの「英霊」だのという言葉を使って、国民の戦争熱を煽るような記事をどんどん書いた。国民もそれに乗せられて、自分たちが困窮している原因がどこにあるのかも判断できず、戦勝祝賀提灯行列を繰り出したりしていた。
そういうのに比べれば、海軍左翼トリオと呼ばれた3人は、まだまともな判断力を持っていたということだろう。
井上成美はヨーロッパに赴任していた際、ドイツ語、フランス語をマスターしていて、ヒトラーの『我が闘争(Mein Kampf)』を原書で読んでいた。そこには「日本人は、想像力のない劣った民族だが、小器用だから、ドイツ人が手足として使うには便利だ」と書かれていたが、日本語の訳書ではその部分が削られていた。それでその部分をガリ版刷りにして周囲に配って、ヒトラーは日本人をこの程度にしか見ていないのだから、ドイツを単純に仲間だなどと思うのは危険だと説明したんだが、誰も相手にしてくれなかった。
山本五十六は、日本がついに三国同盟に署名したときは、友人の原田熊雄に「まったく狂気の沙汰だ。事態がこうなった以上全力を尽くすつもりだが、おそらく私は旗艦長門の上で戦死する。その頃までには東京は何度も破壊され最悪の状態が来る」と語ったという。
そんな井上、山本には、三国同盟推進派が暗殺しようとしているという噂が常についてまわった。
ただ、組織の中で動かざるをえない軍人としては、上から命じられたら従うしかない。組織が欠陥だらけだと人材を生かせない。
メディアが偏向報道をするのも、組織がきちんと機能しない硬直した体質で固まっていくのも、今の日本は戦前戦中の状況に急速に近づいていると言えるだろう。
凡太: この3人の他に、三国同盟に反対だった人たちはいなかったんですか?
イシ: いや、いっぱいいたよ。
海軍のトップは、お飾りとはいえ軍令部総長の
伏見宮博恭王だけれど、伏見宮も反対だった。他にも海軍関連では、広田内閣のときの海相・
永野修身、元首相・海相の
岡田啓介、連合艦隊参謀長などを務めた
小沢治三郎、海軍出身の侍従長・
鈴木貫太郎などは反対派だった。陸軍でも
石原莞爾や
辰巳栄一などは反対していたし、閣僚も、内大臣・
湯浅倉平、外相・
有田八郎、蔵相・
石渡荘太郎などは反対派だった。元老の
西園寺公望もそうだ。昭和天皇も、最終的には押しきられたけれど、条約に参戦条項を含めることには反対した。
しかし、すでに説明したように、1940年になってフランスがドイツに敗北すると、中国戦線で行き詰まっていた陸軍は、この際、ドイツ、イタリアと手を組むぞという脅しのカードを使えば、米英が蒋介石を援助する、いわゆる「
援蒋ルート」を断ち切れるんじゃないか、その隙を狙って
北部フランス領インドシナ、オランダ領インドネシア、イギリス領マレー半島などを占領して資源を確保できるんじゃないか、などという馬鹿なことを考えるようになった。この「
南進論」に走らず、思いとどまって時局を見極める冷静さがあれば、少しは事態は変わったのかもしれないけれどね。南進論しか考えられなくなった連中が、親米英といえる米内内閣を倒して、近衛に再び政権をとらせ、三国同盟を締結させたんだな。
1940年9月7日、ドイツから特使ハインリヒ・スターマーが来日し、松岡外相と具体的な交渉を始めた。
9月13日に四相会議、14日に大本営政府連絡会議、15日に海軍首脳会議、16日に閣議、19日に御前会議と進んで、最後まで懸念を表明していた海軍側も「これ以上海軍が条約締結反対を唱え続けても国内の情勢が許さないだろう。ゆえに賛成する」と、完全に折れた形で同盟締結が決まってしまった。
9月27日、ベルリンの新宰相府大広間(総統官邸)において条約が調印された。
締結と同時に、同盟の意義を国民に伝える昭和天皇の「詔書(詔勅)」も出され、翌日の新聞で大きく取りあげられた。
日独伊三国同盟締結を伝える朝日新聞の記事。同盟の意義についての天皇の詔勅も大きく取りあげられている
詔勅はこういう文章だ。
大義ヲ八紘ニ宣揚シ坤與ヲ一宇タラシムルハ實ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕カ夙夜眷々措カザル所ナリ
而シテ今ヤ世局ハ其ノ騒亂底止スル所ヲ知ラズ人類ノ蒙ルベキ禍患亦将ニ測ルベカラザルモノアラントス
朕ハ禍亂ノ戡定平和ノ克復ノ一日モ速ナランコトニ軫念極メテ切ナリ
乃チ政府ニ命ジテ帝國ト其ノ意圖ヲ同ジクスル獨伊兩國トノ提攜協力ヲ議セシメ茲ニ三國間ニ於ケル條約ノ成立ヲ見タルハ朕ノ深ク懌ブ所ナリ
惟フニ萬邦ヲシテ各其ノ所ヲ得シメ兆民ヲシテ悉ク其ノ堵ニ安ンゼシムルハ曠古ノ大業ニシテ前途甚ダ遼遠ナリ
爾臣民益國體ノ觀念ヲ明徴ニシ深ク諜リ遠ク慮リ協心戮力非常ノ時局ヲ克服シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼セヨ
現代文に直せば、こんな感じかな。
世界のすべての国々に日本の正しい道(大義)を広め、天下を一つの家のように平和にまとめるという「八紘一宇」の思想は、まさに皇祖皇宗(天皇家の祖先)から伝わる偉大な教えであり、私が日夜忘れず心にかけていることである。
しかし、今や世界情勢の混乱は留まるところを知らず、人類が被るであろう災いは計り知れない。
私は、こうした乱れを鎮め、平和を回復する日が一日でも早く来るようにと心から願っている。
そこで政府に命じ、我が帝国と志を同じくするドイツ、イタリア両国と協力することを協議させたところ、ここに三国間の条約が成立した。これは、まことに私の喜びとするところである。
思うに、すべての国々がそれぞれの立場を得て安定し、すべての民が安心して暮らせるようにすることが古来からの大いなる理想だが、実現の道のりは遠く険しい。
臣民(国民)よ、ますます国家の本質(国体)への理解を深め、広い視野と長期の展望を持ち、心を合わせ力を尽くし、この非常の時局を乗り越えて、永遠に続く皇運(天皇と国の繁栄)を支えなさい。
凡太: 三国同盟はわざわざ天皇の詔勅が出されるほど重大な出来事だったということですね。天皇はこの同盟には消極的だったんじゃないですか?
イシ: そうだ。もちろん、詔勅は天皇自身が書くわけじゃない。近衛内閣が草案を提出して、それを内大臣・木戸幸一らがチェックして、最終案に練り上げるという形だ。
昭和天皇は同盟に強い懸念を抱いていたから、この詔勅の内容にも強い関心を持っていた。でも、最終的には
詔勅によって国民に納得させるという形で利用されてしまうんだね。
この詔勅が出されるまでには、昭和天皇の他に、宮中で天皇を常に輔弼する役割の内大臣・
木戸幸一(起草・修文の実務責任者)、首相の
近衛文麿(同盟推進の政治責任者で起草案を政府から提出)、外務次官・
東郷茂徳(条約文と詔勅の整合を取るための調整役)、海軍大臣・
吉田善吾(同盟には消極的立場で、詔書文面での「平和志向」挿入を希望した)などが関わっている。
9月上旬に政府が外務省条約局に作らせた詔書の原案では、
「大義ヲ八紘ニ宣揚シ
皇運ノ隆昌ヲ期スルハ…」とか「今ヤ世界ノ形勢ハ大ニ変転シ
帝国ハ其ノ地歩ヲ確保スルヲ要ス」「帝国ハ独伊両国ト共ニ
正義ヲ宣揚シ列強ニ抗ス」「
臣民協心戮力以テ皇運ヲ輔ケヨ」など、かなり強い調子で書かれていた。それがどのように調整されていったかが、木戸が残した『木戸幸一日記』や戦後に発表された『昭和天皇実録』に詳しく書かれている。
9月20~22日、木戸が政府が出してきた原案を天皇に見せたところ、天皇も「これでは戦意を煽るきらいがある」「同盟は平和を目的とすべきものであるから、詔書の文面もその趣旨を明らかにするように」と指示した。
そこで木戸は詔書の文面を全面的に修正して、「禍乱の鎮定」「平和の克復」などの表現を挿入し「朕ハ禍亂ノ戡定平和ノ克復ノ一日モ速ナランコトニ軫念極メテ切ナリ」という一文が追加された。
「八紘一宇」については削らずに残したが、あくまで「平和的世界統合」の理念として解釈するように直した。
9月25日にこの修正案を天皇に奏上したところ、天皇は「八紘一宇」という言葉に注目し、「『八紘一宇』の意は、征服ではなく協和の意でなければならぬ」と再度要請したので、木戸はさらに軽い語調に修整して最終案とした。
これを見た松岡外相は「あまりに穏やかすぎる」として、特に「列強ニ抗ス」が削除されたことに不満を述べた。しかし、天皇がこの最終案でよいとしたので、そのままになった。
凡太: 昭和天皇はとにかく戦意高揚にならないようにと粘った感じですけど、結果としては国民は「天皇から命じられたのだから、ますます気合いを入れて敵と戦わなくては」って思い込んでしまいますよね。
イシ: そういうことだよねえ。
渋る天皇を内大臣・木戸幸一がうまく操縦しながら詔勅を出させるまでにこぎ着けたと言えるかな。
木戸幸一(1889-1977)
木戸孝允の妹・治子と長州藩士・来原良蔵の長男として生まれる。学習院高等科から京都帝国大学法科大学政治学科に進み、卒業後、農商務省に入省。昭和5(1930)年、学習院で1学年下で友人でもあった近衛文麿の推挙で内大臣府秘書官長に就任。二・二六事件の処理などで昭和天皇に認められ、第一次近衛内閣で文部大臣、初代厚生大臣。このとき、昭和15(1940)年開催が決まっていた東京オリンピックの開催返上を決定。続く平沼内閣で内務大臣。1940年6月に内大臣に就任。三国同盟に否定的だった昭和天皇に、陸軍が推す近衛文麿を首相に奏薦。以後、敗戦時まで政界を動かすキーマンとなる。1941年9月6日の日米開戦準備が決定された御前会議でも、会議の参加者全員に直接意見を聞きたいと言った天皇を押しとどめた。1941年総辞職した第3次近衛内閣後の首相選びでも、近衛と木戸の二人が東条を指名することに決め、大方が推していた東久邇宮稔彦王による組閣を阻止した。日米開戦後も東条内閣を支えたが、敗戦濃厚になると東条を見限り、天皇の求めに応じて終戦工作をするが、連合国側はすでにヤルタ協定を締結していた。敗戦後の東京裁判ではA級戦犯として起訴される。「木戸日記」や長文の宣誓供述書を提出して天皇の免訴を主張したが、決定的証拠としては取りあげられなかった。自身は1票差の票決で死刑を免れ、終身禁錮刑に。1955年に健康上の理由から仮釈放。1977年4月、87歳で死去。
吉田善吾(1885-1966)
佐賀県出身。海兵(32期)卒業後、日露戦争の日本海海戦に従軍。海大卒業後、戦艦「金剛」「陸奥」艦長、連合艦隊参謀長、海軍省軍務局長、練習艦隊司令官、第二艦隊司令長官、連合艦隊司令長官などを歴任。昭和14(1939)年、阿部信行内閣で海軍大臣。米内内閣、第2次近衛内閣でも海相留任。日独伊三国同盟では反対派が多かった海軍を代表する形だったが、松岡外相に説得されて賛成に回る。しかし、不安に陥り神経をやられ、自殺を図った。三国同盟締結直前に海相を辞任。戦後は公職追放となり、1952年に解除される。1966年11月、81歳で死去。
凡太: 天皇をはじめとして反対する人たちがたくさんいたのに、三国同盟を締結させてしまった最大の力は、松岡外相と木戸内大臣にあるみたいですね。
イシ: そうだね。猪突猛進の松岡と、フィクサー役の木戸。この二人がいなかったら三国同盟が締結されたかどうかは分からない。
で、その三国同盟の内容はというと、
- 日本国は、ドイツおよびイタリアのヨーロッパにおける新秩序建設に関し指導的地位を認め、かつこれを尊重する。
- ドイツ及びイタリアは、日本の大東亜における新秩序建設に関し指導的地位を認めかつこれを尊重する。
- 日本、ドイツおよびイタリアは、前記の方針に基づく努力について相互に協力すべきことを約す。さらに三締結国中のいずれか一国がヨーロッパの戦争または日支紛争に参入していない一国によって攻撃されたときは、三国はあらゆる政治的・経済的・軍事的方法により、相互に援助すべきことを約す。
- 本条約実施のため、日本政府、ドイツ及びイタリア政府の任命による委員からなる混合専門委員会を遅滞なく開催する。
- 日本国、ドイツ及びイタリアは、前記の諸条項は三国それぞれとソ連との間に存する政治的状態になんらの影響を及ぼさないことを確認する。
……となっている。
ここで問題となったのは、
ドイツがアメリカと戦争することになった場合、日本が自動的に参戦する義務が生じるのかということだった。
第3項の「
ヨーロッパの戦争または日支紛争に参入していない一国」とは具体的にはどこを指すのか。イギリス、フランスはすでにドイツ、イタリアと交戦しているから除外され、中国も事実上日本と戦争中と見なされるから除外できる。ソ連についてはわざわざ第5項で除外している。とすると残るのは
アメリカだ。
松岡外相はスターマーとの交渉の中で、この第3項を極力曖昧にさせるため、条約本文では「援助すべき」という言い方にして、別途交換した公文において「第3条の対象となる攻撃かどうかは、3国で協議して決定する」とした。
しかし、
仮想敵国がアメリカに絞られていることは明らかで、アメリカが黙っているわけがない。要するに松岡はアメリカを舐めすぎていた。
ちなみに、日独伊三国同盟の条文原文は英語で書かれていたそうだ。大急ぎの調印だったために、日本語、ドイツ語、イタリア語での3種類の条約原文を準備できず、松岡の指示で急遽英文の条約文になったらしい。皮肉にも、仮想敵国の言語で書かれた条約原文に調印するというあたりがすでに暗雲たちこめていて、お先まっ暗という感じだね。
そして日本はついに対米開戦に向けて走り出してしまった。
最後の元老・西園寺公望は、三国同盟が締結されたことを知り、周囲に「これで日本は滅びるだろう。おまえたちは畳の上で死ねないことになった。その覚悟を今からしておけ」と憤ったという。
軍部の人間でさえ、アメリカを相手にした戦争に勝てるなどと思っている者は少なかった。なぜそんな自滅の道に突き進んでしまったんだろうねえ。
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