日露戦争勝利という歴史の番狂わせ
イシ: 日清戦争が終結したのが1895年。その9年後の1904年に、今度は日露戦争が起きるわけだけれど、この9年間の間、日本国内と、日本を取り巻く諸外国の状況がどのように推移していったのか、いくつかの視点ごとにまとめてみよう。
まずは朝鮮国内の状況。
日清戦争で清が敗れ、下関条約で日本が清に朝鮮半島の独立を認めさせたわけだけれど、実質、日本が後ろ盾になっていた金弘集内閣はクーデターで倒された。復活した閔氏政権が親ロシアだったため、日本公使館の主導で閔妃を殺害。生き延びた高宗はロシアに助けを求め、ロシア公使館で政務をとるという、完全な親露政権になった。
1897年10月、ロシア公使館から宮廷に戻った高宗は、国名を朝鮮から「大韓帝国」と改めて、自らが皇帝に即位したと宣言した。
日本は朝鮮を日本傀儡政権にする工作をあれこれしてきたが、結局失敗したという結果だね。
一方、
高宗を保護していたロシアは、その見返りとして朝鮮国内の鉱山採掘権や森林伐採権、関税権などを得て、着々と朝鮮半島内の利権を拡大していった。
これ以上朝鮮におけるロシアの実効支配力が増大するのはまずいと恐れた日本は、三浦梧楼に代わって赴任した
小村壽太郎公使が、1896年5月14日、漢城で、日本とロシアが共同で朝鮮の内政を監督すること、ロシア公使館に匿っている高宗を王宮に戻すこと、日本はロシアと同数の兵を朝鮮に駐留できることなどを盛り込んだ覚え書きをロシアのウェーバー公使と交わした(
小村・ウェーバー協定)。
この翌月、ロシアのニコライ2世の皇帝戴冠式がロシアの首都・サンクトペテルブルクで行われた。そこに日本の特使として派遣された
山縣有朋は、6月9日、
ロシア外相ロバノフと会談して協定を結び(
山縣・ロバノフ協定)、改めて、日本とロシアの兵の駐留地区を南北に分けて、その間に緩衝地帯を設けるといった提案をしたが、具体的な内容が決まらないまま、実効性のないものだったため、朝鮮におけるロシアの実効支配優位は続いた。
で、この戴冠式には清国の
李鴻章も出席していたんだ。
凡太: 下関条約で日本人テロリストに銃撃されて重傷を負った後ですよね。しかも70代の高齢で、すごいですね。
イシ: すごいというか、なんだろうねえ、何を考えているのか侮れないというか……。李とロバノフは秘密裏に日本を仮想敵国とした相互援助協定を結んだ(
露清密約)。
内容は、
- 日本がロシア・朝鮮・清に侵攻した場合、露清両国は陸海軍で相互に援助する
- 清とロシアは、一方の同意なくして敵国と平和条約を結ばない
- 戦争の際には、清は自国の港湾すべてをロシア海軍に開放する
- ロシア軍の移動のため、清はロシアに黒竜江省・吉林省経由でウラジオストクに至る鉄道敷設を許可する
- 平時であっても、ロシアはこの鉄道で軍隊と軍需物資を自由に輸送できる
……といったもの。
凡太: 完全に清とロシアの軍事協定ですね。
イシ: 特に鉄道敷設の意義が大きいね。この頃、列強は中国に対しては港湾の開放と鉄道敷設による利権で実効支配するという方法を採っていたから。
凡太: 李鴻章さんはなぜそんなにロシアに有利な協定を結んでしまったんですか?
イシ: 第一の理由は、日清戦争の賠償金を払えなかったからだ。ロシアは清の財政難につけ込んで、協定を結べば金を融資するよと持ちかけたんだな。
この時点では、
清はロシアよりも日本に強い脅威を抱いていたといえるね。日清戦争に敗れて莫大な賠償金を支払うことになっただけでなく、日本に台湾を取られてしまった。
清が軍事的に脆弱だと知った列強諸国は、「租借権」という形で清に要求を次々に突きつけ、呑ませた。
租借というのは「借りる」ということだけれど、租借した側の列強諸国がその土地の鉄道敷設や鉱山開発などの利権を思い通りに手に入れるわけで、事実上、
国土のうち、交易や軍事に重要な沿岸部のほとんどを列強に分割統治されている状態(中国分割)だね。
その頃、清国では山東省の農民らが反キリスト教、反西洋化を訴える
義和団と呼ばれる結社を作り、宣教師や列強の利権関係者らを相手に多くの抗争を起こした。「扶清滅洋(清を助け、西洋諸国を倒せ)」をスローガンに結集したこの集団は巨大化し、1900年6月には20万人の教団員が北京に入って、日本公使館書記官やドイツ公使を殺害した。
この争乱に乗じて列強を中国から追い出せるのではないかと考えた
西太后は、平和裏に解決を図る政府高官たちを次々に処刑し、無謀にも列強諸国に宣戦布告する。
この争乱(
義和団事件・北清事変)鎮圧を名目に、オーストリア=ハンガリー帝国、フランス、ドイツ、イタリア、日本、ロシア、イギリス、アメリカの8か国は連合軍として兵を派遣し、争乱を鎮圧した。
日本はロシアがこの争乱に乗じて満州や朝鮮での支配力を決定的にするのを押さえるため、最も多くの兵を派遣した。
ロシアは案の定、争乱鎮圧後も満州に兵を駐留し続け、満州の支配を確立しようとした。
ここまで勢力を伸ばしてきたロシアに対して日本はどう向き合うかで、日本国内では2つの施策論が対立した。
一つは、ロシアを抑え込みたいイギリスと同盟を組んで、武力抗争も辞さぬ姿勢で強硬に臨むという
日英同盟論。
山県有朋を筆頭に、
桂太郎、
小村寿太郎らがこの論を主張した。
山縣有朋(1838-1922)
長州の下級武士の家に生まれる。幕末には高杉晋作の奇兵隊で軍監を務め、戊辰戦争を転戦。明治政府では陸軍卿、初代参謀本部長、第1次伊藤内閣の内務大臣などを歴任した後、1889年に第1次山縣内閣を組閣し総理大臣。長州陸軍閥ともいえる軍閥を形成し、政府内で強固な軍拡派勢力を作った。日清戦争では第一軍司令官。1898年、第1次大隈内閣が崩壊すると、第2次山県内閣を組閣し、憲政党と提携して地租増徴に成功。以降は文官任用令改正で政党勢力の官僚からの排除、枢密院権限の拡大、軍部大臣現役武官制の制定など、次々に軍部指導体制を強化。治安警察法を制定して労働運動も弾圧した。日露戦争を参謀総長として指揮。1909年に伊藤博文が暗殺された後は、元老内の最有力者として君臨した。
桂太郎(1848-1913)
長州藩士として戊辰戦争に参加。明治に入り、帝政ドイツへ留学後、山縣有朋の下で働き、陸軍次官、第3師団長、台湾総督を歴任。第3次伊藤内閣、第1次大隈内閣、第2次山縣内閣、第4次伊藤内閣で陸軍大臣。明治34(1901)年6月に内閣総理大臣(第1次桂内閣)。日英同盟締結に動き、日露戦争後は西園寺公望と交代で首相を務めた(桂園時代)。第2次桂内閣のとき韓国を併合し、日本統治下に置く。大正2(1913)年2月、第3次桂内閣退陣後、病に倒れ、10月に満65歳で死去。
小村寿太郎(1855-1911)
宮崎出身。幼い頃から学業優秀で、明治8(1875)年、第1回文部省海外留学生に選ばれて米国ハーバード大学へ留学。帰国後、司法省に入省し、明治17(1884)年に外務省へ入ったが、外務大臣・井上馨の鹿鳴館外交や、大隈重信の外国人判事を認めての条約改正指針などには軟弱であるとして反対していた。明治26(1893)年、清国公使館臨時代理公使に。東学党の乱の収拾などに努めた。閔妃殺害事件後には事件を起こした駐朝公使・三浦梧楼に代わって朝鮮公使に就任。金弘集内閣を支えた。明治29(1896)年、日本に呼び戻され、原敬に代わって外務次官に抜擢された。明治33(1900)年、義和団の乱が起きると駐清公使を命ぜられ、講和会議全権として事後処理にあたった。明治34(1901)年、第一次桂内閣の外相に就任。日英同盟締結に向けて動いた。
日露戦争後の講和交渉でも全権大使となり、ロシア全権のウィッテと交渉。講和をまとめたが、状況を理解できない国民から「賠償金も取れないとは何事か」と突き上げられた。身長が低かったため「ネズミ公使」という渾名をつけられていた。
凡太: 民間からの反戦論は出なかったんでしょうか。今なら、とにかく戦争だけは嫌だ、やめてほしいという声がすぐに上がりそうですけれど。
イシ: ほとんど出てこなかったみたいだね。それどころか、明治37(1904)年には、帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)教授・
戸水寛人ら、7人の法学者、政治学者が、総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村壽太郎らに、ロシアに対しては武力を持って侵攻しろという主戦論を唱えた意見書を提出した。いわゆる
「七博士意見書」と呼ばれているものだね。
内容としては、「今、満州問題を解決しなければ、ロシアに朝鮮を奪われる。朝鮮がロシアの勢力下に入れば、次は日本を狙うだろう。この好機を失えば、日本はその存立が危うくなることを国民は自覚するべきだ」といったもの。
戸水などは、「バイカル湖以東の東シベリアを占領すべきだ」と強硬に主張したため、「バイカル教授」という渾名もついた。
東京日日新聞(現・毎日新聞)や東京朝日新聞といった主要新聞もこの意見書を紙面に掲載して、積極的に読者にアピールした。
教育界やマスメディアが民間の主戦論を煽ったといえるだろうね。

政府に主戦論の意見書を出した「七博士」。左上から右下へ:
戸水寛人(1861-1935):帝国大学法科大学教授。日露戦争末期には賠償金30億円と樺太・沿海州・カムチャッカ半島割譲を講和条件とするように主張。さらには金井延、寺尾亨と連名でポーツマス講和会議の拒否を上奏文として提出。
富井政章(1858-1953):帝国大学法科大学長。立命館大学初代学長。明治22(1889)年から始まった民法典論争では、フランスのボアソナードらが起草したフランス流の民法施行を、内容が不明瞭で錯綜しており、他のドイツ式民法なども参考にすべきだとして延期するよう主張した。
高橋作衛(1867-1920):東京帝国大学名誉教授。貴族院議員。
小野塚喜平次(1871-1944):東京帝国大学総長。貴族院議員。弟子に弟子に吉野作造、南原繁ら。
金井延(1865-1933):寺尾亨:東京帝国大学法科大学教授。
寺尾亨:東京帝国大学法科大学教授。中国で辛亥革命が起きると大学教授の職を辞して現地に入り、孫文を補佐し、孫文が日本に亡命した後も支援した。
中村進午(1870-1939):学習院教授、立教大学、早稲田大学教授、東京高等商業学校(現・一橋大学)教授、東京商科大学名誉教授などを歴任。
凡太: 学者たちも主戦論だったんですか。それじゃあ、大学で学んでいた学生たちもそうなっていくんでしょうね。
イシ: もちろん、反戦派の学者や知識人もいたけれど、多くの国民からは支持されなかったんだろうね。
内村鑑三は、「日清戦争では2億の金と1万人の生命を費やしたが、日本の目的だった朝鮮の独立はかえって弱められ、中国の分割は激しくなり、国民の負担はさらに増した。アジアの平和安定どころか、東洋全体をますます危うい状況にしたではないか。こうした経験をしているのになおも開戦を主張するのは、正気の沙汰ではない」といった主張をしている。(「万朝報」明治36(1903)年6月30日)
内村鑑三 (1861-1930)
教師、新聞記者、キリスト教思想家。
明治24(1891)年1月、勤務先の第一高等中学校(現・東京大学教養学部、千葉大学医学部、薬学部)講堂で行われた教育勅語奉読式で、教育勅語の前に進み出て奉拝することを求められた際、最敬礼はせずに降壇したことを「不敬」と糾弾される「内村鑑三不敬事件」で有名になる。
明治34(1901)年から足尾鉱山鉱毒事件を取材し、『萬朝報』に、「古河市兵衛の起こした人災」であると報じた。
日清戦争では開戦支持だったが、その後は非戦論に転じた。しかし、萬朝報が世論に押されて主戦論に転じると、幸徳秋水、堺枯川と共に萬朝報を離れた。
実業界からも、当時の五大紡績会社の一つである大阪合同紡績社長・谷口
房蔵は、「戦争というものは貿易を進めたくてするものなのだから、できることならなんとか平和に話をまとめてもらいたい。今はまだ戦争をしなければ国家危機存亡のときというほどではないのだから、他国のことにやきもちを焼いて感情的にならないでほしい」という旨の発言をしている(1903年11月頃)と伝えられている。
政界でも、
伊藤博文は、ロシアとの全面対決は避けるべきで、そのためには満州はロシアに渡し、朝鮮における日本の権益を最低限死守する(
満韓交換)方向でロシアと協議するという「
日露協商論」を主張し、
井上馨も伊藤のこの協調政策に賛同していた。
凡太: でも、ロシアは日本からの「満韓交換」交渉には乗ってこなかったんですよね?
イシ: そういうことだね。ロシアはすでに実質上ほぼ支配下に置いている満州はもちろん、朝鮮での権益拡大も狙っていたからね。
南下政策を進めるロシアを巨大な蛸で表現した戯画。『滑稽欧亜外交地図』より。作者:中村進平(閲)小原喜三郎(案)西田助太郎(著・発行)
それに、もしロシアと協定を結んだとしても、ロシアがそれを守る保証はどこにもない。実際、この時期、ロシアは清の李鴻章と密約を交わしているしね。
かといって、日英同盟にしても、世界最強を誇る大英帝国が日本のようなアジアの新参者と対等の同盟協定を結んでくれるのか、たとえ協定が結べたとしても、日本はイギリスの使い走りみたいに利用されるだけではないのか、という懸念があった。イギリスはそれまで「光栄の孤立」といって、どの国とも同盟を結んでいない。それだけ自国の軍事力に自信があったからだ。
凡太: でも、日英同盟は結ばれるんですよね。
イシ: そう、明治35(1902)年1月30日に調印された。
この背景には、それまで中国大陸における利権を独占していたイギリスが、後から入ってきたドイツやロシアがどんどん分割統治みたいなことを始めてしまったことで、焦っていたということがあるだろうね。特に南下してくるロシアは脅威だった。
そこで、
日本をうまく使うことで、自国のリスクを極力抑えた形でロシアの進出を阻止しようという狙いがあった。
つまり、
日英同盟の仮想敵国はロシアだった。協定の内容は、
- イギリスと日本は清国における権益を相互に認め合う
- イギリスと日本の一方が他国と交戦した場合、もう一方は中立を守る
- ただし、さらに第三国が相手側として参戦してきた場合は、中立ではなく参戦する
……というもの。この「交戦した場合」の相手は明確にロシアをさしている。さらに第三国が相手方に着いた場合の第三国の筆頭はドイツ、その次が隣国のベトナムを支配下に置いていたフランスかな。
ここで注目すべきは、日英いずれかがロシアと戦争になった場合、もう一方は中立を守るという点だね。イギリスは先にロシアと戦争する気はない。日本を先に戦わせて、その様子を見守るよ、と言っているに等しい。
そこにドイツやフランスが加わってきたら、日本が負けた後に中国も朝鮮半島もそれらの国によって完全分割統治されてしまうから、出遅れないためにイギリスも参戦するよ、というわけだ。
凡太: アメリカはどうしていたんですか?
イシ: アメリカはスペインと戦争して勝利し、スペイン領だったフィリピンを手に入れたところだった。同時期にハワイも手に入れていたし、ここでフィリピンというアジア進出の拠点を作れたわけだけれど、その間に中国が事実上分割統治され始めて、すっかり出遅れてしまった。
そこでアメリカは、「清国をこれ以上列強諸国が分割統治するようなことはよろしくない。清国の独立性を尊重し、すべての港を開放し、制限を加えることなく、どの国も平等に貿易できるようにすべきだ」と主張する。
これにイギリスも同調した。それまでイギリスが中国利権を独占していた状況が他国に分割されるくらいなら、機会均等という名目で貿易できるようにしたほうがいいという判断からだね。
まあ、そのくらいイギリスの独占力というか、圧倒的な力に陰りが見えていたということかな。
凡太: なんか、みんな調子いいですよね。清国は欧米列強にトコトンいいようにされて、可哀想になってきました。
イシ: 日本も日英同盟を結んだことで、その欧米列強に仲間入りした、と見なされたわけだよ。欧米列強からは「日本は侮れないな」と一目置かれたかもしれないけれど、他のアジア諸国、特に中国、朝鮮からは、ものすごい敵意と怨嗟の目で見られただろう。
この後の日本の帝国主義化や戦争依存症によって、そうした怨念の記憶は世代を超えて今も伝えられているところがある。これは双方にとって不幸なことだね。
日露戦争の経過
で、1903年8月から、日本はロシアと朝鮮を巡る最終交渉に入る。日本は朝鮮半島は日本に、満州はロシアに、という「
満韓交換論」で臨んだんだが、ロシアはこれを拒否。朝鮮半島の北緯39度以北は中立地帯として軍事目的での利用を禁ずるという内容を提示してきた。
しかし、日本はこれはロシアの策略で、実際には朝鮮半島全体がロシアの支配下に置かれてしまうと判断し、ロシアとの戦争を覚悟した。戦うなら、ロシアが進めているシベリア鉄道の工事が全線開通する前にケリをつけなくてはという思いもあった。
こうして、
1904年2月6日、小村寿太郎外相がロシアのローゼン公使に対して国交断絶を宣告し、2月8日に日本陸軍が朝鮮半島の仁川に上陸、同日夜、日本海軍が旅順港外のロシア艦隊を襲撃。2月10日には双方が宣戦布告して、
日露戦争が始まった。
凡太: 宣戦布告前に、日本は実質的に戦争を始めてるんですね。でも、ロシアの兵力は日本よりはるかに強大だったんでしょう? 日本に勝算はあったんですか?
イシ: 民衆の多くは正確な軍事力比較なんてできないから、無責任にロシアをやっつけろと戦意高揚していたかもしれないけれど、政府も軍部も、これは相当厳しい戦いになると覚悟していた。伊藤博文なんかははっきりと「この戦いに勝ち目はない。勝利を望んではいけない。尽くせるだけ尽くすのみである」と言っていた。
兵力は圧倒的にロシアが上。シベリア鉄道を使って大陸側からも兵や軍事物資を大量に運び込まれる。さらにはヨーロッパにいるバルチック艦隊がやってきたら、日本本土も危ない。そうなると、日本はひとたまりもない。
しかも、日本には戦争を続ける金がない。ロシアを相手に日本が勝てるわけがないと諸外国は思っていたから、日本に金を貸してくれない。
だから、万が一のチャンスがあるとしたら、短期決戦しかない。満州に駐留しているロシア軍を撃破したところで、バルチック艦隊がやってくる前に講和に持ち込む、という戦略だった。
凡太: 日英同盟を結んだイギリスは助けてくれなかったんですか?
イシ: 日英同盟の内容を思いだしてみよう。「二国間での戦争には中立を守る」という項目があっただろう。これを盾に、イギリスは協力しようとしない。下手に手を出すと怪我をするからね。ここは日本だけが被害を受けて、ロシアの勢力が少しでも弱まれば儲けもの、ということだろうね。
日本は朝鮮半島を北上して満州のロシア軍を殲滅させ、ロシアが実効支配している遼東半島の旅順港を破壊して、ロシアの太平洋艦隊を壊滅させるという戦略だった。
しかし、旅順はなかなか落ちなかった。
陸軍と海軍の連携がうまくいっていなかったことも一因だ。当初、海軍は、陸軍の助けがなくても旅順港のロシア艦隊を撃破できると言い張って、共同作戦を拒否していたりしてね。
半年かかって旅順はようやく攻略できたんだけれど、その間、日本軍の被害は甚大だった。有名な203高地の攻防だけでも5000名以上の死者、1万2000名近い負傷者を出し、ロシア軍もほぼ同じくらいの死傷者を出した。
凡太: それでも、最終的には日本が勝ったんですね。
イシ: 勝てたことにはいくつかの要因があると思うんだけれど、まずは、この戦争を他の国はどう見ていたかを検証してみよう。
戦闘の舞台ともなった朝鮮半島では、開戦直後の1904(明治37)年2月23日に、日本と大韓帝国との間で
日韓議定書を締結した。
日本が韓国の独立や王室の保全を守る代わりに、韓国は日本を信頼して日本の忠告を受け、軍事戦略上必要な地点を日本が臨機収用することを認める、といった内容だ。あけすけにいえば、日本はロシアと戦争を始めたけれど、変な気は起こさず、協力しろ、といっているわけだね。
しかし、高宗を皇帝とした大韓帝国の支配者層は王族や守旧派官僚たちだから、親ロシアだ。自ら火の中に飛び込むことはしないだろうけれど、いざとなればロシアのために動くことははっきりしている。
では、清国はどうか。
これはもっと複雑で、李鴻章がロバノフと結んだ密約がある。でも、この露清密約は、日露開戦後の5月18日に破棄され、清は厳正中立を宣言した。
ただ、ロシアの植民地のようになっていた東三省などを回復するチャンスと見て、北洋軍閥を率いる
袁世凱はスパイ活動などを通じて裏で日本に協力していた。
ただし、馬賊出身で軍閥の
張作霖などはロシアに協力し、ロシアのためのスパイ活動などをするなど、統制がとれていない。
日英同盟を結んだイギリスは、当初は冷淡だったが、1904年4月に日本が仁川から満洲へ北上する途中でロシア軍と激突した
鴨緑江の戦いで勝利したことに驚き、一転して日本に肩入れし始める。
日本銀行副総裁・
高橋是清が、イギリスで必死の資金調達を試みていたんだけれど、緒戦での日本軍の勝利を知った諸外国は、徐々に高橋の訴えに応じて国債を買うようになった。
特に、アメリカの銀行家ジェイコブ・シフの協力を得られたことが大きかった。
シフはドイツ生まれのユダヤ人で、当時、ロシアで起きていたユダヤ人迫害運動「ポグロム」への報復として、ロシアと戦う日本に肩入れしたと言われている。
これで、日本はなんとか戦費調達を続けられた。
ジェイコブ・ヘンリー・シフ(1847-1920)
ドイツ・フランクフルトで、古くからロスチャイルド家とも縁の深いユダヤ教徒の家に生まれる。1862年に渡米し、金融財閥クーン・ローブ商会に就職し、20年後に頭取に。
日露戦争勃発時、戦争国債を発行するためにアメリカ、イギリスを訪れていた高橋是清を知り、ドイツのユダヤ系銀行やリーマン・ブラザーズなどに呼びかけて日本への巨額融資を実現させた。これにより、日露戦争後の1906年には勲一等旭日大綬章をうけている。
帝政ロシアに対しては徹底して打倒工作をし続けたが、ロシア革命を仕掛けたレーニンやトロツキーに対しては資金提供して援護した。また、シフと縁戚関係になったファースト・ナショナル銀行ニューヨーク、ロックフェラー財閥のチェース・マンハッタン銀行、J・P・モルガン・アンド・カンパニーなどもソビエトに対して融資を続けた。
高橋是清(1854-1936)
幕府御用絵師の子として生まれたが、生後すぐに仙台藩の足軽・高橋覚治の養子に。
その後、横浜でアメリカ人医師ヘボンの私塾に学び、慶応3(1867)年、藩命で勝海舟の息子・小鹿と米国留学することになるが、斡旋したアメリカ人貿易商に瞞され、オークランドの農場に奴隷同然で売られた。その間、英語を習得し、明治元(1868)年に帰国。文部省に入省。官僚として務める傍ら、共立学校(現:開成中・高等学校)の初代校長など、教育現場でも活躍。教え子に正岡子規、秋山真之らがいる。
明治22(1889)年、ペルーに渡り銀鉱山事業に挑むが失敗。帰国後、ホームレスになっていたところを鉱事業を行うが、すでに廃坑のため失敗し、英語教師時代からの友、山口慎と苦労を分かつ。1892年(明治25年)、帰国した後にホームレスとなるが、貴族院議員・川田小一郎に助けられ、日本銀行に入行。日露戦争勃発時は、日銀副総裁の肩書きで米英に渡り、戦費調達に成功した。
大正2(1913)年、第1次山本内閣、原敬内閣で大蔵大臣。原敬が暗殺された直後に第20代内閣総理大臣に就任したが、原敬を失って混乱する政友会を立て直せず、半年で内閣は崩壊した。
昭和6(1931)年、犬養毅内閣で4度目の蔵相に就任。金輸出再禁止、国債の日銀直接引き受けなどによって世界恐慌によるデフレからの脱出に成功。
昭和7(1932)年の五・一五事件で犬養が暗殺されると総理大臣を臨時兼任。続く斎藤実内閣、岡田啓介内閣でも蔵相を続けたが、インフレ回避のために軍事予算を抑えようとしたため、軍部の恨みを買い昭和11(1936)年の二・二六事件で青年将校らに射殺された。満81歳没。
凡太: 高橋さんの人生はドラマチックですね。
イシ: まさに波瀾万丈。映画やドラマ向きかもしれないね。
ちなみにイギリスのロスチャイルドは当初は日本の国債購入を拒否していたんだが、高橋の根回しで、終戦後の1907年第6回日本外債では購入している。
しかし、この外債は要するに借金だからね。総額が1億3000万ポンド(約13億円弱)に上り、返済は第一次大戦後までかかっている。
日露戦争の戦費が18億2629万円だというから、7割以上は外国からの借金でまかなったことになる。高橋がいなければ、日本が日露戦争に勝つことはなかった。これは間違いない。
日本では今でも、日露戦争勝利の英雄としてバルチック艦隊を撃破したときの司令長官・
東郷平八郎や参謀の
秋山真之を英雄として称えているけれど、そもそも
高橋是清の資金集めが成功していなければ戦争遂行は無理だった。

東郷平八郎(1848-1934)
薩摩藩士として文久3(1863)年の薩英戦争に従軍。戊辰戦争では軍艦に乗り新潟、札幌まで転戦。明治4(1871)年から明治11(1878)年までイギリスに官費留学のポーツマスに官費留学する
凡太: 渋谷に東郷神社という神社があります。
イシ: そう。神社に祀られるほどの英雄になったんだ。
それほどまでにバルチック艦隊の撃破というニュースは衝撃的だった。バルチック艦隊が艦艇のほとんどを失って、司令長官が捕虜になったのに対し、日本側は失ったのが水雷艇3隻だけ。この結果に、日本国内が熱狂したのはいうまでもなく、世界中が驚いた。
あまりにも見事な勝利だったために、その後ずっと日本の軍部に「海軍を強くすれば戦争に勝てる」といった固定観念として刷り込まれてしまったのはマイナス効果だっただろうね。
それと、この勝利に浮かれるあまり、日本国内での世論が冷静さを失った。
日本にはこの時点で、それ以上戦争を継続する経済的な余裕はなかった。当初から、この戦争は長引かせたら絶対にまずいということは軍部も分かっていた。
すでに約180万の将兵を動員し、死傷者は約20万人、戦費は約20億円に達し、武器・弾薬の補給も絶えていたからね。特に陸戦の続行は不可能だったのに対して、ロシアは艦隊を失ったものの、シベリア鉄道を使って陸軍を増強できる。これ以上戦いを引き伸ばしたら日本が最後は力尽きるのは明白だった。
伊藤博文は、開戦直後すでに、司法大臣の金子堅太郎を密使として渡米させて、アメリカの世論を日本寄りにする工作をさせている。金子はルーズベルト大統領ともハーバード大学で同窓生だった仲で、アメリカ国内各地を英語で演説して回った。「日本は領土的野心のために戦争をしているのではない。ペリー提督が日本にもたらしてくれた門戸開放を守るために戦っている」などと、アメリカ国民の心情をくすぐるようなうまい演説だったらしい。
その後、小村寿太郎外務大臣も渡米して、ルーズベルトに終戦の仲介を頼んでいる。
凡太: そうしてアメリカが仲介役となって、ポーツマス条約が結ばれたんですね。
伊藤さんは、若いときは平気で人斬りをするテロリストでしたけれど、この頃には政治家としてすごい手腕を発揮していたんじゃないですか?
イシ: その通りだね。
この頃の伊藤は、政府内では最も合理的な考え方ができる、バランス感覚を持った重鎮になっていたと思うよ。人生、分からないものだねえ。ただ、伊藤の次の世代の政治家がうまく育っていない感じだね。
で、その伊藤の努力もあって、日本はなんとか破滅する前に終戦協定に持ち込めた。
バルチック艦隊が日本海で撃破されたのが1905年の5月28日。その9日後の6月6日に、ルーズベルトは日本・ロシア両国政府に対し講和交渉を始めるように勧告。10日に日本側が、12日にロシア側がそれぞれ受諾して、講和交渉を始めることになった。
しかし日本軍はその和平交渉が行われている間にも、7月に樺太攻略作戦を実施して全島を占領している。これに当然ロシアは怒ったが、仲介役のルーズベルトはむしろ、日本が交渉を有利に進めるためには樺太占領が有効だと示唆していたともいわれている。
イシ: そう。日本にとってはこれでなんとか首の皮がつながったようなものだったんだけれど、賠償金を取れなかったことで日本国内で暴動を起こさせる結果になったんだね。
長くなったので、それについては次回にするよ。
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弥生時代を築いた渡来人は2系統いた。1000年の「暴力団時代」の後に訪れた奇跡のような戦のない200余年。西郷、大久保、板垣らが「まともな維新」をぶち壊して、イギリス傀儡政権を作ってしまった。
……学校で刷り込まれた日本史を今こそ正しく上書きしよう。講師と生徒一人の対話形式で、スラスラ読める、まったく新しい「真」日本史読み物が登場!
旧版『馬鹿が作った日本史 縄文時代~戊申クーデター編』の前半部分を補完・改定してAmazon KDP版にすることで価格を大幅ダウン。
-----内容-----
1. 縄文時代~大和王権まで
「縄文時代」は1万年以上/「縄文人」は単一種族ではない/日本列島に殺し合いが持ち込まれたのはいつか/歴史から消された出雲王朝/邪馬台国は南九州にあった/西洋と日本の歴史を戦争の視点で比べる/空白の四世紀/「記紀」という権力者による歴史創作/日本書紀に記された原住民殺戮の記録/聖徳太子は架空の人物なのか?/大和王権成立までの大筋を推理する/ニギハヤヒは鬼伝説となって生き残った/現在も皇室の中に残る出雲の力/現日本人の特質は古代からの混血によって生まれた
2. 江戸徳川政権時代まで
朝廷の弱体化の下で暴力団国家となっていく日本/「下請け」が力をつけて成り上がる時代/合戦の時代に横行した略奪や奴隷売買/権力が弱まっても天皇家が消滅しなかった理由/徳川政権確立までの道のり/家康の「代わり」が務まる人物はいたか/徳川政権創生期を支えた裏方たち/天海とは何者だったのか?/戦争がなくなり開花していく庶民文化/江戸時代の特異性を世界史視点で考える/インカ帝国殲滅のようなことが日本で起きていたら?/島原の乱は「宗教戦争」ではない/「キリシタン」を巡るゴタゴタ/日本が西欧列強の植民地にならなかった理由/人が大量に死ぬ最大の要因は疫病/歴代将軍の治世を再評価/一気に花開いた江戸庶民文化
3. 攘夷テロと開国までの道のり
江戸時代の世界情勢/帝国主義と資本主義/産業革命の条件/ノーベル兄弟とロスチャイルド家/黒船来航前にあったこと/アヘン戦争ショック/ペリー来航前に書かれた一冊の「日本攻略本」/ペリー来航前の日本/マンハッタン号とクーパー船長/日本に憧れたマクドナルド青年/優秀な人材を生かせず、殺してしまった幕府/ペリーは日本の開国に失敗していた/日本を開国させたのはハリス/最高の人材ヒュースケンを殺した日本のテロリストたち/日米修好通商条約は「不平等」条約ではなかった
ISBN978-4-910117-54-6
A5判・134ページ
★Amazon KDP版 1298円(税込)
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『真・日本史(2) -幕末史「戊申クーデター」の実相- テロリストと欧米エリートが壊した「維新」』
徳川政権が続いていれば日本の近代化(維新)はずっとうまくいき、イギリスの傀儡政府のようになることはなかった。幕末の「志士」や明治の「元勲」たちの残虐なテロ犯罪を検証していくだけでも、
「明治維新」がいかに暴虐かつ無知なクーデターであったかが分かる。
旧版『馬鹿が作った日本史 縄文時代~戊申クーデター編』の後半部分を補完・改定してAmazon KDP版にすることで価格を大幅ダウン。
-----内容-----
1. テロリストたちが作った幕末史
日本崩壊序曲は水戸藩から始まった/幕末史の重要人物まとめ/優秀な人材はほとんど明治前に消された/幕末のテロ事件一覧/幕末日本に関わった外国人たち
2. 戊申クーデターまでの経緯
生麦事件と薩英戦争が大きな転換点だった/倒幕のキーマンは久光とパークス/西郷らにも影響を与えたサトウの「英国策論」/公武合体派の奮闘と挫折/長州藩唯一の良心・長井雅楽の無念/久光が動く/松平春嶽、横井小楠の悲運/「まともな維新」を不可能にさせた人たち/孝明天皇という最大の障壁/禁門の変という愚挙/中途半端すぎた長州征討/小栗忠順、栗本鋤雲、赤松小三郎らの無念/孝明天皇は暗殺されたのか?/坂本龍馬の実像/「大政奉還」「王政復古」の真実/江戸で大規模テロを起こした西郷隆盛の大罪
3. 戊辰戦争は日本史の恥
「国造りという仕事」を放棄して逃げた徳川慶喜/江戸「無血」開城の裏側/上野戦争の無残/シュネル兄弟と東北諸藩/「ジャパン・パンチ」から読み取る諸外国の動向/庶民が見た幕末を伝える「風刺錦絵」/奥羽列藩同盟結成までの経緯/恩賞原資としての東北侵攻/白石会議による東北諸藩の自衛団結/世良修蔵暗殺で始まった東北戊辰戦争/北越戦争の裏でも動いていたサトウ/東北戊辰戦争の悲惨と理不尽/東軍はなぜ負けたのか/「白虎隊の悲劇」をより正確に知る/二本松藩の悲劇/裏切り・離反の連鎖と庄内藩の孤軍奮闘/最後はイギリスがとどめを刺した/テロリズムと武力が作った明治政府
ISBN978-4-910117-55-3
A5判・162ページ
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