大日本帝国憲法という呪い
凡太: 大日本帝国憲法は伊藤さんが中心となって作られたということですが、伊藤さんのグループ以外の人たちはどうしていたんですか?
イシ: 自由民権派や民間の学者らが独自にいろいろな草案を作っていて、
私擬憲法と呼ばれているね。
江藤新平は明治3(1870)年10月、『
国法会議案、附国法私議』というものを発表していて、これが日本で最初の私擬憲法ではないかといわれている。
だけど、実はもっと前に幕臣(幕府開成所教授職)の
西周が、大政奉還後の日本の政体はこうあるべきだろうという意見書を徳川慶喜の側近だった平山敬忠に提出している。
「
議題草案」というもので、行政権は将軍が、司法権を便宜上各藩が、立法権を各藩大名・藩士で構成した議政院が持ち、天皇は象徴的地位に置かれるという内容だった。
会議制度の創設や三権分立を提案したわけで、ある意味、これが日本で最初の憲法草案といえるかもしれない。
凡太: 西周さん……教科書の隅っこに小さく載っていたような気がします。哲学とか能動・受動とか、理性とか科学とか、それまでになかった日本語を何百も考案して広めた人、というように習いました。幕府の人だったんですか?
イシ: 出身は島根で、津和野藩の藩校で学んでいたんだけれど、その秀才ぶりが認められて幕府直轄の洋学研究機関・
蕃書調所に移り、徳川慶喜のブレーンとして活躍した人だ。慶喜に大政奉還を決意させたキーマンの一人とも言われている。
西周(1829-1897)
石見国津和野藩の御典医の息子として生まれる。文久2(1862)年、幕命で榎本武揚らとともにオランダに留学。ライデン大学で法学、カント哲学、経済学、国際法などを学ぶ。
慶応元(1865)年12月に帰国し、目付として徳川慶喜の側近として活動。大政奉還後の日本の政体として、西洋の官制に倣った三権分立を取り入れた体制を提案するが、戊申クーデターにより、日の目を見ることはなかった。
明治6(1873)年、森有礼、福澤諭吉、加藤弘之、中村正直、西村茂樹、津田真道らと共に明六社を結成。機関紙『明六雑誌』を発行し、「意識」「知識」「芸術」「概念」など、それまで日本語になかった600を超える新語を作った。
↑文久2(1862)年、幕府がオランダに派遣した留学生。前列右端が西周。後列左から3人目は榎本武揚。(『幕末名家写真集』より)
↑『別紙・議題草案』の冒頭。「一 西洋官制の義は三権之別を主と致し候事に而、法を立候権は、法を行候権と、又法を守候権は無之、法を行候権は法を立候権と法を守候権とは無之、法を守候権は、法を立候権と法を行候権とは無之、三権共皆独立不相倚候故、私曲自ら難行、三権各其任を尽候事、制度之大眼目に有之候、右三権之別、此方に而従来一手に出候事故、……」と、三権分立を掲げている(国立国会図書館デジタルコレクションより)
凡太: 凄い人だったんですね。西さんが憲法の草案を書いていたらどうなったんでしょう。
イシ: いいものができていたんじゃないかな。でも、榎本武揚もそうだけれど、その優秀さゆえに明治政府に引っ張り込まれたが、幕臣出身だから、決して主導権や最終的な決定権は与えられなかった。
西周が薩長出身だったら、伊藤なんかよりはるかに優れた政治家になっていただろうね。
いや、薩長出身だったら、というIFは不適切か。戊申クーデターが失敗して、大政奉還後に徳川中心の合議制政体ができていたら、という仮定か。虚しいIFだけれどねえ。
明治政府内にいた大隈重信も独自に「憲法意見」という私案を作っていたが、伊藤はすべて無視した。
私擬憲法の多くは主権在民を謳っていたんだけれど、伊藤らにしてみれば、学のない民衆が主権を持つなんてナンセンスというわけだね。
もっとも、当時の民衆は世界情勢や政治機構のことなどまったく知らないから、ある意味無理もないともいえるかな。
自由民権運動をやっていた人たちにしても、板垣に代表されるように、自由とは名ばかりで、天皇が絶対だという尊皇主義者がいたり、すぐに暴動やテロを起こすような過激派がいたりで、学者肌の人材が乏しかった。
福沢諭吉なんかは、自由民権派の活動家を心底バカにしていたフシがある。
で、自由民権派がグズグズになっている間、伊藤は、ワンマン体制のもとで、伊藤憲法とでも呼ぶべき憲法制定に向けて準備を進めていく。
明治17(1884)年3月、憲法制定のために制度取調局を設置し、自ら長官に就任。
井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎を補佐役として憲法の起草を開始した。大日本帝国憲法は、伊藤とこの3人の手によるものだと思っていい。
ただ、同年7月には
華族令の公布があって、憲法草案の作業は後回しになった。議会や憲法の前に、まずは華族の身分保障が必要だというわけだ。
凡太: え? 議会政治や憲法制定のために華族と平民という身分分けが必要なんですか?
イシ: 伊藤が考えていた議会は貴族院と衆議院の二院制で、
華族でなければ貴族議員にはなれない。
貴族院の議員身分をはっきりさせるために必要だったんだね。
貴族というと公家のことだと思いがちだけれど、それだと伊藤のように農民出身の者は都合が悪い。そこで、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵という5つの爵位を作り、平民との身分の区分けを明確にしたんだ。
華族という身分は華族令制定前からあったんだけれど、華族の身分が代々継承される永世華族と、一代限りの終身華族というのがあったのを、すべて永世華族とした。
最上位の公爵は戊申クーデターを起こして徳川政権を倒した公家や大名家で、三条実美の三条家や薩摩の島津家、長州の毛利家がなった。二番目の侯爵は5万石以上だった大名家や大久保利通の大久保家、木戸孝允の木戸家。伯爵は井上馨、黒田清隆、山縣有朋といった薩長閥。
伊藤もこのときに伯爵位を得た。これは翌明治18(1885)年に発足させる内閣の初代総理大臣に就任するための布石ともいえるね。従来の慣習からすれば、爵位が最上位の正一位公爵である三条実美が就任するという見方もあったんだが、農民出身の伊藤も今では立派な華族であるし、なによりも諸外国とやりあえる英語力や海外経験があるから適任だと、井上馨や山縣有朋が推挙して決まった。
伊藤はその後、第二次伊藤内閣のときの明治28(1895)年には侯爵に、初代韓国統監時代の明治40(1907)年には最上位の公爵になった。
凡太: 伊藤さんは自分で自分を華族にした感じですね。
イシ: そういうことだね。
ちなみに板垣退助は伯爵を授与すると言われたが、旧自由党員を集めてわざわざ演説までして断った。しかし、結局は「天皇陛下のお気持ちを断ることは不敬にあたる」と諭されて受けている。
凡太: 板垣さんは、貴族院という特権階級だけの議会を作ることには反対しなかったんですか?
イシ: そのへんがまだまだ……ねえ。
板垣の中では天皇の絶対神聖視と自由主義、民主主義が矛盾することが理解できていないんだろうね。おそらく一生、この矛盾に真っ正面から向き合うことはなかったんじゃないかな。
で、話を戻すと、伊藤が仕切る政府は、明治18(1885)年には太政官制を廃止して内閣制度を創設し、伊藤自らが初代内閣総理大臣になった。同時に宮内省を内閣から切り離して宮中と政府の分離も図り、どんどん伊藤独裁体制を固めていった。
初代内閣総理大臣に就任して政府トップの座を固めた伊藤は、明治20(1887)年6月から憲法草案作成作業を再開する。三浦半島の夏島という場所にある自分の別荘に、井上
毅、伊東巳代治、金子堅太郎を呼んで憲法の草案作業を本格的に始めた。
同年12月には保安条例を制定・即日施行して、私擬憲法の検討・作成を禁じた。外野が口を出すな、余計なことを言うなら処罰するぞ、というわけだね。
井上毅(1844-1895)
熊本藩士出身。幼少時から神童と呼ばれるほど勉学に秀で、幕末はフランス語を学ぶべく幕府が開設したフランス語伝習所などで学んだが戊申クーデターが起きて東北戊辰戦争に従軍。勉学の道が一旦閉ざされた。
明治4(1871)年12月に明治政府の司法省に仕官。翌明治5(1872)年、西欧使節団の一員として渡欧し、欧州の司法制度の調査研究を行う。帰国後は日本固有の文化・習慣・法律の保持を重視すべきと考えるようになり、自由主義の色濃いフランス民法典を高く評価していた司法卿・江藤新平と思想の上で対立する。
明治六年政変後は、かつての上司だった江藤の処刑を見届け、その後は大久保利通、伊藤博文ら政府主流陣に重用される。
明治17(1884)年3月、憲法制定のために設置された制度取調局長官に就任した伊藤の下で御用掛を兼任。同じ御用掛となった伊東巳代治、金子堅太郎らと共に伊藤の補佐役として大日本帝国憲法の起草に参加。皇室典範の起草や第1次山縣内閣の下で起草された教育勅語にも関与した。
そうして、明治22(1889)年2月、大日本帝国憲法が公布され、翌明治23年11月に施行された。
凡太: 大日本帝国憲法はドイツのビスマルク憲法を参考にして伊藤博文グループが作った、ということですよね。政府を去っていった江藤新平さんや大隈重信さんは、フランス流の自由度の高い法体系を目指していたけれども、政争に敗れて実現できなかった、ということで間違いないでしょうか。
イシ: そうだね。大日本帝国憲法がどのようなものだったのか、伊藤らはなぜそれを目指したかということは、もう少し深く探ってみる必要があるだろうね。
まず、大日本帝国憲法は「
欽定憲法」である、といわれているけれど、正確には違うんじゃないかな。
凡太: 欽定憲法?
イシ: そう。欽定憲法というのは、君主によって制定された憲法のことだ。国王や皇帝が、自らの主張や意見を盛り込んで作っている。
大日本帝国憲法も、天皇が制定した「欽定憲法」だということになっているけれど、ここまで見てきたように、実際には伊藤らが作っていて、それを天皇が「それでいい」と認めるという形だね。
言い換えれば、天皇は戊申クーデターの時と同様、利用されただけだ。
大日本帝国憲法の冒頭は、
第一條
大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
となっている。
凡太: 天皇独裁ということですよね?
イシ: まあ、そういうことになるんだけれど、それだと天皇が国を滅ぼすようなことを命じれば、たちまち破局が訪れてしまう。
そこで憲法を創案した者たちもいろいろな解釈を用意するわけだよ。
井上毅の草案では、この第一条の「之ヲ統治ス」の部分は、「之ヲ
治ス所ナリ」となっていた。
凡太: 「しらす」? 「知らせる」ということですか?
イシ: 漢字で書くとそうなるんだけれど、説明が必要だね。
これは井上毅が、『古事記』に、「統治する」という意味で、「シラス」と「ウシハク」という別の言葉が使い分けられていることに着目して、というか、感化されて使ったといわれている。
シラスは「知らす」で、文字通り「知る」こと。さらに意味を広げて「一体化する」ということ。
ウシハクは「主人(ウシ)履く(ハク)」で、「所有する」「専有する」ということだというんだね。
凡太: つまり、井上毅さんの憲法草稿は、天皇が国を所有するのではなく、国と一体化する、という意味にしたかった?
イシ: そんな風に説明する人も多いね。
凡太: でも、そうだとしても、天皇は万世一系、つまり、
職業選択の自由がないわけですから、生まれたときから国と一体化することを課せられてしまうわけですよね。僕なら逃げ出したくなります。
イシ: 私だってそうだよ。しかも、自分の意志で国を導いていくこともできない。実際にはシンボルとして担ぎ上げられ、利用されるわけだから、
自分の意志に背くようなことも、形の上では自分が命じたことにされてしまう。
孝明天皇暗殺説、錦の御旗の偽造、尊皇攘夷を叫ぶテロリストたち……戊申クーデターの前後を見れば、そうした危険性は証明されている。さらには、ここから先の明治から昭和前期の戦争時代はまさにそうだ。
天皇が作り、天皇が国の最高権力を握っている、すべては天皇の思うとおりに、臣民である国民は天皇のために働くのだ、という内容の憲法でありながら、
実際には最高権力者が不在で、命令系統、統率権の在処が不明瞭なんだ。そこを利用して、軍部の暴走も起きた。
凡太: 明治時代に欽定憲法ではない憲法ができる可能性はなかったんでしょうか?
イシ: う~ん、難しい質問だねえ。
欽定憲法の対義語は民定憲法、つまり、国民の総意で決められた憲法というわけだけれど、まだ国会もなかった当時の日本では、国民の総意なんて汲みようがない。
そのためにも早期に国会を開設する必要があったわけだけれど、伊藤が考えていた二院制議会は華族だけが議員になれる貴族院が上院になっているし、衆議院議員選挙の選挙権も成年男子の高額納税者のみに制限されていた。
凡太: 民主的な議会、憲法というのとはほど遠い感じですね。
イシ: そうだねえ。
もっとも国民全体の民度というか、政治への理解度も低かった。
大日本帝国憲法が発布されると、日本全国でお祭り騒ぎになったそうだけれど、それも政府からの誘導で、ほとんどの国民は憲法の中身を知らなかったし、理解しようともしなかった。
それを見た在日外国人たちは苦笑した。お雇い外国人医師のエルヴィン・フォン・ベルツは、日記に「人々は大騒ぎしてありがたがっているが、誰も憲法の中身を知らない」と書いている。
ベルツは事あるごとに、日本が性急に西洋化しようとすることに警告を発していた。
日本の教養人たちが自国固有の文化を軽視して、うわべだけの西洋文化模倣をすればするほど、外国から信頼を得られなくなるだろう。今の日本に必要なことは、日本古来の文化の美点を再認識し、現代、そして将来の要求にゆっくりとすり合わせていく作業だ」というようなことを言っていた。
エルヴィン・フォン・ベルツ(1849-1913)
ドイツ帝国の医師。ライプツィヒ大学医学部卒業。明治9(1876)年、お雇い外国人として東京医学校(現在の東京大学医学部)に着任。明治14(1881)年、東海道御油宿(愛知県豊川市御油町)戸田屋の戸田花子と結婚。
明治22(1889)年10月に大隈重信が爆弾により暗殺されかけた事件では、大隈の右脚切断手術の執刀もしている。
明治30(1897)年、樺太アイヌ調査のため北海道を訪問。明治35(1902)年、宮内省侍医に。明治38(1905)年、花子夫人を連れてドイツへ帰国。明治41(1908)年、伊藤博文に請われて再来日。1913年、ドイツ帝国シュトゥットガルトにて病死(64歳没)。花子夫人はドイツ国籍を認められず、ベルツの死後10年はドイツに暮らしたが、帰国。1937年、74歳で没。長男・徳之助(Erwin Toku、1889-1945)が、ナチス時代に父親の日記を出版。
凡太: 憲法が発布され、国会もできて、自由民権運動の人たちはどうしたんでしょうか。
イシ: 憲法が発布される前の明治20(1887)年10月、
片岡健吉が、
言論の自由の確立、地租軽減による民心の安定、対等な立場での条約改正と外交の回復という3つの項目を柱とした「
三大事件建白」と呼ばれる建白書を元老院に提出した。
これに呼応するようにして、後藤象二郎らが自由民権派の協力を呼びかける「
大同団結運動」を展開。
尾崎行雄や
星亨らも声を上げ、自由民権運動が再び盛りあがるかに見えたんだが、政府は12月に
保安条例を制定・施行して、片岡、尾崎、星らを含む民権派を多数逮捕、追放した。
結局、大同団結運動も挫折してしまい、伊藤のペースで憲法発布、国会開設となるわけだね。
国会開設のために、明治23(1890)年7月には最初の衆議院議員選挙が行われたんだが、この時期は、官権による自由党系の演説や言論を弾圧する事件が激化している。
しかし、結果は民権派の勝利と言えるものだった。
自由民権派は、旧自由党から分裂した自由党(当選17人)、大同倶楽部(同・54人)、愛国公党(同・36人)の3党で定員300人のうちの107人、大隈重信率いる立憲改進党が当選者43人、さらには九州連合同志会が24人で、自由民権派の合計は174人の過半数を占めた。
選挙後、九州連合同志会の呼びかけで板垣退助を党首とする立憲自由党130人と大隈重信を党首とする立憲改進党41人の計171人の勢力になった。立憲自由党130人の中には、河野広中、片岡健吉、植木枝盛ら、それまで政府から弾圧されてきた者たちも入っている。
これに対して、後藤象二郎が大同倶楽部を抜けて国民自由党(5人)を結成、大成会(79人)とともに政府側勢力を形成した。
凡太: 政府から弾圧を受けても、選挙では自由民権派が勝利したんですね。それにしても、板垣さんと大隈さんはここでも一緒にはなれなかったんですね。
イシ: 大隈は明治十四年の政変で下野後、一旦は伊藤博文内閣(長州閥)の外務大臣として政界復帰して、次の黒田清隆内閣(薩摩閥)でも条約改正交渉を担当したんだけれど、大審院に外国人裁判官を置くという内容が屈辱的だとして猛反対され、あげくは爆弾を投げつけられて右脚を失い、外相を辞任。
その後も板垣退助の自由党と連携したり、小政党を集めて進歩党を結成して野党勢力の増強を図って政界復帰し、第2次松方正義内閣(薩摩閥)では再び外務大臣になったものの、またまた薩摩閥と折り合わずに辞任するなど、藩閥政治の中で一進一退を繰り返した。
凡太: でも、大隈さんは総理大臣にもなっていますよね。
イシ: そうだね。明治31(1898)年、板垣の自由党と手を組んで、自由党と進歩党を合併した憲政党を立ち上げて、薩長以外の初めての総理大臣になった。
この内閣は大隈と板垣の内閣ということで「
隈板内閣」と呼ばれたんだが、わずか4か月で憲政党が憲政党(自由党派)と憲政本党(改進党派)の二派に分裂して、内閣も崩壊してしまった。
その理由というのが、自由党系と進歩党系の大臣配分問題だったというんだから、情けないよ。
隈板内閣の構成は、総理と外相兼任が大隈。内務相が板垣。大蔵と通信相が旧自由党系、司法、文部、農商務が旧進歩党系で、旧進歩党系の閣僚が4人、旧自由党系の閣僚が3人。旧自由党系のほうが少ないというので、板垣らが反発した。
凡太: なんだか、今の日本の野党のようです。
イシ: そうだねえ。与党も野党も、明治時代からのダメなところばかり踏襲している気がするねえ。
なんだか気が滅入ってきたんで、今回はこのへんにしておこうかな。