馬鹿が作った日本史(39)

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テロリズムと武力が作った明治政府


イシ: さて、ここまで幕末史をていねいに見てきたわけだけれど、徳川政権を倒して、江戸以北を東北を蹂躙してできた明治政府というものが、いかに暴力的で、庶民の生命と暮らしを軽視した者たちによって作られたかが分かったかな。

凡太: 学校では「長州五傑」とか「明治の元勲」とか覚えさせられました。みんなエライ人たちだと思ってましたけれど、そうともいえないんですね。

イシ: そうだね。
 例えば、俗に「長州五傑(ファイブ)」と呼ばれている長州藩士が何をやった人たちかを振り返ってみようか。
 文久3(1863)年5月に、英国公使館員エイベル・ガウワーの手引きでイギリスに渡った5人の長州藩士のことで、井上馨(聞多)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤博文(俊輔)、井上勝(野村弥吉)の5人だ。
 伊藤は初代総理大臣となって紙幣の肖像にもなっている人物だから誰もが知っているけれど、伊藤と山尾庸三は、渡英する前年の文久2年12月12日(1863年1月31日)には高杉晋作、久坂玄瑞、井上馨、品川弥二郎、赤根武人、山尾庸三らと一緒にイギリス公使館焼き討ちに参加し、その10日後の12月22日(1863年2月10日)には、国学者・塙忠宝(ただとみ)(塙 保己一(ほきいち)の息子)と、たまたま一緒にいた塙の知人・加藤甲次郎を、山尾と一緒に襲って斬殺している。

伊藤博文(1841-1909)

周防国の農民の子として生まれたが、父親が長州藩の足軽伊藤家に入ったため下級武士の身分を得る。
友人の来原良蔵(くるはら りょうぞう)、吉田稔麿らの紹介で吉田松陰の門下生となるが、身分が低かったために戸外で立ったまま聴講した期間が少しあっただけだった。その後、吉田稔麿らと共に尊皇攘夷運動に参加。しかし、吉田稔麿は池田屋事件で憤死。来原は長井雅楽暗殺未遂事件や横浜の外国公使館襲撃に関わり、文久2(1862)年、長州藩江戸藩邸にて自害。
文久3(1863)、井上馨の薦めでイギリスに密航。イギリスではマセソン商会のヒュー・マセソンの世話になる。
明治以降は初代・5代・7代・10代の総理大臣。枢密院の議長時に大日本帝国憲法発布。第二次内閣のときに日清戦争。
明治42(1909)年、初代韓国統監就任後に朝鮮民族主義者の安重根に暗殺される。満68歳没。


山尾庸三(1837-1917)

周防国吉敷郡二島村の庄屋の息子として生まれる。江戸で同郷の桂小五郎(木戸孝允)に師事。攘夷運動に参加して、英国公使館焼き討ちに参加し、その直後、伊藤博文と組んで国学者・塙忠宝と知人の二人を暗殺。
翌年、伊藤らとイギリスに密航。マセソン商会の世話になり、グラスゴーのネピア造船所で見習い工として技術研修を受ける。
明治以降は横須賀製鉄所担当権大丞など、重工業関連の仕事に従事。大正6(1917)年、80歳で没。

凡太: イギリス公使館員のお世話になって密留学する5人のうち3人が公使館を焼き討ちしたメンバーなんですか。しかもそのうち2人は国学者も殺している……。

イシ: テロリストとして焼き討ちや殺人をしていた直後に、藩命でイギリスに渡ると、西欧の進んだ文明を目の当たりにして、攘夷だなんだのとやっている場合じゃないと学んだんだね。
 イギリスへの密航がなかったら、伊藤や山尾庸三は高杉や久坂のように、禁門の変あたりで命を落としていた可能性が高いだろう。イギリス憎しと公使館に火をつけた伊藤や、井上馨、山尾庸三らが、そのイギリスによって命を長らえ、イギリスの技術や教育を日本に伝えたわけで、なんとも皮肉だね。

 ちなみに伊藤と山尾が斬殺した塙忠宝は、幕府老中・安藤信正に命じられて寛永以前の幕府による外国人待遇の式典について調査していた。それが「孝明天皇を廃位させるために『廃帝の典故』を調べている」という間違った噂が流れたために、伊藤らに殺された。
 しかし、そもそも孝明天皇は攘夷は唱えていても、政治を担当するのは幕府であると認めていた「佐幕派」なわけで、長州こそが孝明天皇を邪魔だと思うようになっていく。
 私は孝明天皇の急死は、病状の内容や急変からして、十中八九毒による暗殺だと思っている。となれば、孝明天皇を暗殺した黒幕がいるわけで、孝明天皇変死後の急展開を見れば、どのへんが仕組んだのかは想像がつく。

 とにかく幕末のテロリズムはおぞましい。あまりにも愚かすぎるし、日本を弱体化させる元凶だった。いくら若かったからとはいえ、吉田松陰門下の連中がテロ活動に走ったことは、日本の近代化にとっては致命的なダメージを与えた。

 江戸市民は暴力に訴える無粋な薩長勢力を「おはぎ(萩=長州)とおいも(芋=薩摩)」と呼んで心底嫌悪した。当時の瓦版や判じ絵などがそのことをよく伝えている。
 江戸人にしてみれば、西のほうから暴走族が公儀のお膝元である花のお江戸に乗り込んできて、滅茶苦茶な破壊活動をして威張り散らしている、という地獄絵が展開されたようなものだからね。

 幕府の優秀な官僚たち、諸藩から出てきた開明派人材がことごとく殺されたり、左遷されたりしているのも無念すぎる。
 特に小栗忠順、赤松小三郎、横井小楠らが、これから最も必要とされている時期に殺されてしまったのは、日本の近代化にとってどれだけの損失だったことか

 幕末に死んでしまった優れた人材をざっと思い出せるだけ拾ってみても……、

 ……と、枚挙にいとまがない。

凡太: 榎本武揚さんらのグループが生き残ったのはせめてもの救いですか。

イシ: まあね。でも、2年半投獄された後に、過酷な蝦夷開拓使などにつかされるわけで、大変だった。
 榎本は最後は外務大臣に起用されたけれど、明治政府は最初からひどい藩閥政治でガタガタだったよ。

明治になって衰退した東京

 鳥羽伏見の戦いの後、西軍は東征するあちこちで「我らが作る新政府は年貢を半分にする」などとふれ回ったりもしていたけれど、その先鋒となっていた相楽総三率いる赤報隊は「デタラメを吹聴して回った偽官軍である」として処刑された。
 西軍が勝てば暮らしが楽になるかもしれないと淡い夢を抱いた庶民は、逆に家や田畑を失って地獄を見ることになる。特に関東以北は悲惨だった。
 明治政府は、戊辰戦争による死者・負傷者数を、新政府側が死者3550人、負傷者3845人。東軍側の死者4690人、負傷者1509人と発表しているんだが、これには旧幕府兵の死傷者数が含まれていないから、実際には東軍側はもっと死んでいる。
 死者が最も多かったのは会津藩で2557人。次いで、仙台藩831人、二本松藩334人、長岡藩312人。
 さらには、これは実戦に参加した「藩士」のみの死傷者で、巻き込まれて死傷した大勢の農民、町民らは一切含まれていない。江戸以北では、戦によって食糧が奪われ、農地も荒れ果て、家も焼かれるという散々な目に合って、戦いが終わった後に餓死する農民もたくさん出た

 東北戊辰戦争の終結後、徳川や東軍の諸藩はことごとく減封、改易処分を受けた。
 徳川家はおよそ800万石といわれていた所領がすべて没収され、駿河・近江の70万石に減封された。
 他の東軍諸藩に対しては、藩主の命を助ける代わりに、戦闘の責任者の首を差し出せと命じた。
 結果、仙台藩は62万石から28万石へ減封。藩主・伊達慶邦は謹慎。家老6名のうち4名が処刑、切腹。
 会津藩は23万石から陸奥斗南藩3万石に転封。藩主父子は江戸にて永禁固。生き残っていた家老1名が処刑。
 盛岡藩は20万石から旧仙台領の白石13万石に転封。家老1名が処刑。
 米沢藩は18万石から14万石に減封。
 庄内藩は17万石から12万石に減封。
 山形藩は近江国朝日山へ転封、朝日山藩を立藩。石高は5万石から変わらず、筆頭家老・水野元宣は処刑。
 二本松藩は10万石から5万石に減封。
 棚倉藩は10万石から6万石に減封。
 長岡藩は7万4千石から2万4千石に減封。すでに処刑されていた家老2名のお家断絶。

 ……といった具合だ。

凡太: 会津藩への処分が極端ですね。

イシ: 完全な私怨だね。
 新政府からの「戦闘の責任者の首を出せ」という命令に対して、会津藩は、田中土佐、神保内蔵助、萱野長修(権兵衛)の3名の家老を報告した。田中と神保はすでに西軍が城に攻め入ってきたときに自害していたので、萱野が「主君には罪あらず。抗戦の罪は全て自分にあり」と述べて、すべての責を負うかたちで処刑された。

凡太: 白河口の戦いを指揮した西郷頼母さんは処刑されなかったんですね。

イシ: 西郷頼母は本来ならばまっ先に首を斬られたはずだけど、落城寸前に会津城から逃亡した。その後、榎本軍に合流して函館まで行ったんだけれど、降伏後は館林藩預け置きとなった後に、幕臣勝海舟の補佐役になった会津藩士・林三郎に引き取られる形で静岡に行って隠棲。その後は神社の宮司や祢宜をしながら、後藤象二郎らの提唱する大同団結運動に加わったりしながら74歳まで生きた。
 運命とは分からないものだね。

 会津藩は、辛うじて生き残った人たちも生き地獄を味わうことになる。
 斗南藩というのは、本州極北の地で、厳しい気候というだけでなく、平地がほとんどないから農作物が穫れない。3万石というけれど、実質は7000石がやっとだった。
 そんな土地で旧藩の領民を養うことなど無理だから、北海道に渡る者や、流浪の民になるものなど、散り散りになった。会津戦争をなんとか生き延びても、その後、さらに苦しい状況で餓死、病死する者がたくさん出た。

凡太: 江戸はどうなりましたか?

イシ: 東京と改称された江戸は、一気に衰退した。
 まず、各藩の大名屋敷と幕臣屋敷が新政府に取り上げられて官庁の用地などに転用されるんだけれど、大名屋敷で働いていた職人や女中、出入りしていた商人たちは失職して、江戸の経済力が一気に低下した。
 しかも無人となった屋敷地が広すぎて手入れができない。建物は朽ちる一方。荒れた野原みたいになった土地に桑と茶を植えるという政策(桑茶政策)も行われたんだけれど、育たなくて大失敗。
 板囲いをして管理することを条件に、ただ、もしくはただ同然で三井とか小野組などの政商に引き取らせたものの、それでも管理できなくて荒れるがままになった。
 皮肉なことに、嫌々大名屋敷跡地を引き受けた政商たちは、後に地価が再び高騰して大儲けする。

 一方で、徳川時代の商家は、得意先がなくなって次々につぶれていった。
 旧幕臣も、俸禄がなくなって「武士は食わねど高楊枝」みたいな生活になり、餓死者が多数出た。

 文化の面でも、廃仏毀釈が起きたり、江戸時代の複層的な庶民文化が壊され、国家神道的な方向に向かって行き、どんどん魅力がなくなっていった。
 お上が芸術の価値を決めるような風潮が蔓延し、権威主義的で型にはまった作品が目立つようになった。技術はあっても、コピーだったり、西洋の真似だったりで、自由な作風や独創性が消えていった。
 明治20年あたりまでの文化は、停滞どころか衰退していたと感じる。その後、大正時代になると、その反動で面白いものがいろいろ出てくるんだけれど、昭和に入ると軍国色がどんどん強くなって、自由な文化はすっかり影を潜める。
 戦争になって、欧米諸国は必死に日本のことを学んで、どうすればコントロールできるかと学ぶのに対して、日本は逆に欧米の文化や情報を拒絶してしまうんだからね。勝てるはずがない。
 そういう風になってしまうのも、元をただせば水戸学的な偏狭な国粋主義が種を蒔いているんじゃないかな。

 「文明開化」とか「四民平等」なんていうけれど、明治時代というのはむしろ精神的には後退した時代だったと思うよ。大らかさや助け合いといった日本人が培ってきたいい面がことごとく否定されたり蔑ろにされて、ただの西洋の物真似や拝金主義、あるいは「貧乏生活は自己責任」みたいな風潮がはびこった。

凡太: 今もそうなってきてるように思います。

イシ: そう思うかい? 若い人たちがそうした殺伐さを感じるというのは、深刻なことだよ。

 他にも明治政府の失政というか、でたらめぶりはひどいものだったんだけれど、それはまたの機会に譲ろう。

 今回のシリーズはとりあえずここまでにするよ。

凡太: ありがとうございました。

イシ: お疲れさん。


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