馬鹿が作った日本史(38)

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東北戊辰戦争の悲惨と理不尽


イシ: こうしてついに、必要のない戦争、東北戊辰戦争が始まってしまう。
 結果は東軍の惨敗となるわけだけれど、その経緯を見ていこうか。

凡太: 九条総督をあっさり引き渡したりしていて、なんだか最初からちぐはぐな感じです。

イシ: そうだね。
 日本では長いこと内戦はなかった。特に東北の地元に残っていた人たちは戦の経験がない。西で何が起きていたかも、実感としては持ちづらかったというのはあるのかもしれないね。

東北戊辰戦争の残虐性

 ここからは悲惨で残虐な話になっていくんだけれど、まず最初に私たち現代人が知っておかなければいけないのは、一旦(いくさ)が始まると、個人レベルでは、極限状態によって異常な精神状況を引き起こされるということだ。

 また、武家の教育を受けている者と農民では、行動原理がまったく違う。
 武士は主君のために命を捨てるのが本望である、という教育を受けている。藩によってその色合いや濃度は違うだろうけれど、会津藩や二本松藩などではそうした「名誉の死」みたいな武家教育が徹底していた。だから今の中学生くらいの少年兵が特攻したり自刃したりということも起きる。
 ところが、兵隊はそうした誇り高い武士だけで編成されているわけじゃない。農家から駆り出された雑兵や、ヤクザ者、罪状持ちみたいな荒くれ者が大勢混じっている。そういう連中を中心に、略奪、虐殺、強姦といった犯罪があたりまえのように起きる。
 貧しさから雑兵となった農民には、戦死者から金品を奪ったり、敵の領地から食料や「人(奴隷)」を奪うのが目的で戦に参加する者もたくさんいる。
 これは乱妨取(らんぼうどり)乱取りといって、戦国時代にはあたりまえのことだった。というよりも、戦国時代の戦はそういうものだった。
 寒冷地では冬に作物が穫れず、飢えてしまうから、出稼ぎみたいな感覚で戦争をしていた。農民は食うため、生きるため、家族を養うために自ら戦に参加したんだ。
 200年以上内乱がなかった日本に、乱取りのような無秩序地獄が甦ってしまったのが戊辰戦争ともいえる。

 教科書では、誰それが率いる軍がどこそこに入って、戦って、勝った負けた、という表面的な出来事だけ列挙しているけれど、その裏では生々しく凄まじい殺戮、略奪、陵辱が行われた。
 いくつかは地元民の日記や伝承などに残っているけれど、公の文書として残ることはまずない。地元の伝承には恨みが込められているから、敵方の行状を強欲非道な方向に強調しがちになる。後に報告書や「○○伝記」のような形でまとめられた文書も、書いた側に理があるように、内容が強調されたり歪曲されたりもする。
 例えば、世良修蔵ら一行が仙台に乗り込んだ後にやっていた行状──驕り高ぶり、婦女子を強姦しまくっていたことを説明しないまま、単に「寝込みを襲われて斬殺された」みたいな書き方をしていたら、「仙台も福島もとんでもないやつらだ」と思い込む人がいるかもしれない。世良とその配下の郎党が、なぜ東北の人たちに深く恨まれたかを知る必要は絶対にある。
 一方、世良が死んだときの様子として、慌てて庭に飛び出した際に頭を石にぶつけて瀕死の状態になり、連行するのが不可能だから河原で斬首した、と伝わっているけれど、それはどこまで本当か分からない、と私は思う。自分で勝手に頭を石にぶつけたんなら、それ以上苦しませないために首を切った、といえるからね。
 同様に、鮫島金兵衛ら薩摩藩士が仙台藩兵に斬られた件にしても、『復古記』では「待ち伏せして後ろから斬りつけた」とあるけれど、そうした書き方であれば、読むほうは「なんて卑怯な」という印象を持つだろう? でも、実際にはどのように殺されたかまでは分からないんじゃないかな。
 『復古記』は全298巻357冊、刊本は全15冊という大著だが、明治以降、長州出身の伊藤博文がリーダーとなって政府予算で編纂されたものだ。戊辰戦争を中心とした記録をまとめた編年体の史料集としてよく参照されるけれど、明治政府が国の予算を使って編纂したものだから、どうしても戊辰戦争は「正義の戦い」であったという印象を持たせる性格になる。実際、西軍は「官軍」、東軍は「賊軍」と表記されている。
 伝承にせよ文書にせよ、個々の事象に大きな嘘はないとしても、書き方一つで印象がガラッと変わる。その結果、地域同士で、「おまえが悪い」「いや、そっちのほうがひどいことをしているじゃないか」みたいな諍いも起きる。
 会津と長州の間では結婚できない、というような話は、かなり最近まであったしね。

 そうしたことを頭に入れた上で、なるべく多くの情報を、冷静に見ていくことが大切だ。
 さらには、自分の故郷がどこそこだから、地元出身の「偉人」の功績にケチをつけるのは許せないとか、そういう地域バイアスみたいなのも一切捨てないと、歴史を公正に検証することはできない。どこそこの出身者はどうこうだからダメだとか、そういう決めつけや偏見も捨てないといけないね。

凡太: 今の日本で暮らすぼくたちとは違う価値観や常識を持った人たちが、戦争という極限状況に置かれていた、ということですね?

イシ: そういうことだね。
 メディアや交通手段がなかった時代だから、西と東の風習の違い、カルチャーショックも大きかった。言葉だって訛りがきつすぎてスンナリ通じなかっただろう。
 そんなこんな、いろんな要素を想定した上で、自分がその状況に置かれたらどうしていただろう、という想像力も必要だ。

 もちろん、最低限度、人間としてそれはダメだろ、というのはある。西郷が江戸で一般人相手にテロをしろと命じたのは許せないし、世良やその配下が仙台で子女を片っ端から強姦したりといった行為はもう論外だと私は思う。これは薩摩がどうの長州がどうのというくくりではなく、人としてそれはどうなの、ということだ。

 ……という前置きをした上で、戊申東北戦争を見ていくと、緒戦の白河口の戦いがまずお粗末すぎた。
 白河は東北防衛の入口となる重要拠点。その白河城の動向を見守っていた会津藩は、世良が殺されたと聞いて、ただちに白河城に攻め入った。

 城に入っていた奥州諸藩の兵は、会津軍を迎え入れるかのようにさっと引き上げた。残ったごくわずかの西軍の兵も、会津藩兵が攻め入ると、本丸に火を放ってあっという間に逃げ出した。

 その後、西軍は白河城を奪還すべく、まずは宇都宮・大田原を制圧していた薩摩の参謀・伊地知正治率いる250名ほどの少数精鋭部隊が攻撃を仕掛けた。
 兵の数が圧倒的に少ないことで一旦は敗走したんだが、総勢700名と、若干の兵力増強を得ただけで、伊地知の徹底した火器重視・奇襲攻撃作戦で、東軍(奥州同盟軍)約2500名が固めていた白河城を半日で奪還した。

 その後、東軍は最終的には約4500名まで兵を増員して計7回に渡り白河城の再奪還をかけて攻撃を仕掛けたんだが、ことごとく打ち負かされる。


東軍はなぜ負けたのか

 東軍の敗因ははっきりしている。
 武器が旧式だったことが最大の原因だけれど、東軍の総大将となった会津藩家老・西郷頼母(たのも)の時代錯誤の精神論と実践経験不足も大きな敗因だ。
 東軍には新撰組の生き残りもいて、彼らは「敵の兵器ははるかに優秀だから、夜襲をかけて火を放ち、敵の武器や兵糧を奪うゲリラ戦で挑まなければダメだ」と主張した。ところが西郷頼母は、「会津は卑怯者ではない。正々堂々と正面から受けて立つ」などと言って耳を貸さなかった。
 東軍は、赤い派手な陣羽織を着た各隊隊長の「来たぞ! 突撃!」の号令で「おおー!」という鬨の声を上げて大通りを突進していく。東軍の兵が持っている銃は弾を先込めする旧式なものが多くて、中には弓矢や槍を手にした兵さえいた。
 一方、西軍は町のあちこちに分散して潜んでいて、建物や立木の陰から同盟軍の隊列に向けて、射程距離、連射性能、命中率が格段にいい新式の銃を撃つ。派手な陣羽織を着た東軍の大将格はまっ先に狙われ、大将が倒れた後の兵は一気に統率が乱れ、戦意も喪失していった。
 西軍側の記録には「まるで鶏を撃っているようだった」と書かれているくらいで、お話にならない戦いだった。

 結果、白河城に続いて、あっという間に棚倉城も落城。白河戦争の死傷者数は、東軍が死者700名以上、負傷者2000名以上に対して、西軍は死者10名、負傷者38名という圧倒的な差があった。
 この一方的な緒戦敗北で、会津を応援しようとしていた諸藩に動揺が広がる。会津兵はもっと強かったんじゃないのか、どうなってるんだこれは、と。
西郷頼母(1830-1903)

会津藩家老。藩主・松平容保に京都守護職を引き受けるべきではないと強く進言。容保が京都に行った後も、京都まで出向き、藩士たちに帰郷を説いたために家老を解任された。
戊辰戦争勃発後は家老に復帰し、白河口の戦いを指揮したが無残な敗北を喫し、総督を解任された。
敗走し、若松城に戻ると、藩主・容保に切腹して降伏するよう迫ったために容保や家臣たちを激怒させた。命の危険を感じた頼母は長子・吉十郎と共に伝令の役を装って城から脱走し、生き延びた。
明治以降、保科近悳(ちかのり)と改名。明治4(1871)年に、勝海舟の補佐役となった会津藩士の自宅に妹と長男と共に移住。その後、再婚し、都々古別神社(福島県棚倉町)の宮司となる。容保が日光東照宮の宮司になると、一緒に祢宜として移る。明治36(1903)年、会津若松で74歳で死去。

「白虎隊の悲劇」をより正確に知る


凡太: 学校の社会科見学旅行で会津に行ったとき、会津武家屋敷という施設を見学しました。そこに、主人の留守を守る婦女子が全員自害した様子というのが人形で再現されていて、みんなでドン引きした記憶があるんですけど、その一家が西郷なんとかで、「西郷は薩摩じゃないのか?」なんて誰かが言ったのを覚えているんですが……。

イシ: そう。それがまさに西郷頼母の一族だよ。頼母の家族9人の他、支族の西郷鉄之助夫妻、義母の実家小森家の婦女子、江戸藩邸から避難していた親戚ら総勢21人が自刃した。
 頼母の家族については、それぞれの辞世の句も残されているね。
 頼母の妻・千重子は、三女の田鶴子(9歳)、四女の常盤子(4歳)、五女の李子(2歳)を刀で刺してから自刃し、母と妹らは互いに刀を刺して自刃した。
 この年齢は数え年だから、満年齢だとこれより1歳か2歳若い。今なら小学生、中学生の女の子が「手を取り合って死んでいけば迷うこともない。さあ、死への山道を行きましょう」なんていう歌を詠んで自害したんだ。

 その直後に屋敷に踏み入った西軍・薩摩藩士の川島信行という人の回想も伝わっている。
 薩摩藩士の川島信行は、西郷邸の玄関より入り、書院とおぼしき所を通り、奥の部屋に進むと、男女が環座し自殺していたという。細布子は、わずかに息があり、「その所に参らるゝは、敵か味方か」と尋ね、敵ならば、戦おうとするしぐさをしたが、川島が「味方だ、味方だ」と叫ぶと、その場に倒れた。細布子は懐剣を出し、咽喉を刺そうとしたができず、不憫に思った川島が介錯したという。川島は、八重子、細布子らの辞世を記した短冊を持ち帰った。(『西郷隆盛一代記』)

 これも、一族21人が、西軍が来たときには陵辱され、足手まといになるから、その前に死を選んだというのは史実だけれど、薩摩藩士が生き残っていた少女の介錯をしたというエピソードあたりまで事実なのかどうかは分からない。わざわざリアルな現場を語っているのだから本当なのだろうとは思うけれど、それが書いてある『西郷隆盛一代記』は「読み物」としての性格があるから、そのつもりで接する必要があるだろうね。
 ここに出てくる川島信行という人物は、土佐勤王党から長州の遊撃隊、龍馬の海援隊と渡り歩いた中島信行だとされていたのが、後に、別人だと分かって薩摩藩士だと訂正されている。こんな風に、どこまでが事実で、どこからが脚色や思い違いなのかというのは、最終的には分からないことが多いから、文献といっても100パーセント信頼できるものはほとんどないという前提で考えないといけない。
 ただ、このときの会津城中では、すでに武家はみんな死ぬ覚悟だったし、婦女子は西軍が入ってきたら必ず陵辱されると考えていた、ということは分かる。
 そうした思考というのは、太平洋戦争敗戦のときも同じだった。生きて辱めを受けるなかれ、と、あちこちで、女子供は敵の上陸前に自害を迫られた沖縄戦でも同じようなことが起きたよね。
 東京でも、女はみんな米兵に犯されるという噂が広まって、髪を丸刈りにする女性もいた。
 それがいざ米兵が入ってくると、子供にはチョコレートをくれたりして、たちまち「ギブミーチョコレート」「マッカーサー元帥すごい」になってしまう。
 ……おっと、話が逸れたけれど、脱線ついでに有名な白虎隊の悲劇についても少しだけ触れておこうか。

 会津藩では武家の男子を年齢別に編成していた。
 当然のことながら主力は朱雀隊、青龍隊で、他は予備兵力だったが、敵が城に迫ってきて主力部隊が出払ってしまうと、白虎隊の一部にも援軍としての出撃命令が下った。
 8月22日、白虎士中二番隊の少年たちは、暴風雨の中、時代遅れの先込め式の重い銃を持たされ、前線である戸ノ口原に向かったんだが、新式の銃を持つ西軍に立ち向かえるはずもなく、たちまち隊長からはぐれ、飯盛山の山頂までなんとか逃げ延びた。
 しかし、寒さと疲労で身体はもう動かない。下には燃える城下が見える。もはやこれまでと、自刃した。
 そこに農夫がやって来て、遺体から金品を盗み始めた。
 これは戦場では普通にあったことで、特にその農夫が悪党だというわけでもない。
 それを、喉を突いたものの死にきれずにいた飯沼貞吉という少年兵が見ていて、その農夫の腕を掴んだ。
 ちなみに貞吉は、西郷邸で自刃した西郷頼母の妻・千重子の甥にあたる少年だ。
 瀕死の少年に腕を掴まれた農夫は、驚いて貞吉の刀を奪って逃げた。
 その後、別の農夫夫妻が貞吉を見つけて治療し、貞吉は命をとりとめた。
 戸ノ口原に出陣した白虎隊のうち、本隊からはぐれた末に飯盛山で自刃したのは20名。22名が生き残って、後から貞吉から自刃した仲間のことを聞いたそうだ。

飯沼貞吉(1854-1931)

会津藩白虎隊中二番隊所属。慶応4(1868)年、まだ15歳(満14歳)だったが、16歳だと偽って白虎隊に入隊。出陣の前に、歌人(雅号・玉章(たまずさ))でもあった母・文子から「あづざゆみむかふやさきはしげくとも ひきなかへしそもののふの道」という惜別の歌を送られ、それを胸にしまった。さらには西郷頼母の家を訪ね、外祖母の西郷なほ子から「重き君軽き命と知れや知れ おその(おうな)のうへはおもはで」という歌も送られている。
敗走後、自刃するも死にきれずに生き延び、明治以降は電信技師となり、日清戦争では技術部総督として出征。昭和6(1931)年、仙台にて没。没年満76歳。

凡太: 14歳の子供が、母親やおばあちゃんから、立派に死んでこいと念を押されて送り出されたんですね。

イシ: 教育というのは怖ろしいよ。
 そうした悲劇を後に美談のように仕立てて、日中戦争、日露戦争、太平洋戦争のときも、お国のために命を捨てることが名誉だというプロパガンダとして利用された

凡太: 僕たちはお国のために命を捨てるなんて冗談じゃないと思いますけど、会津が悲劇の舞台として観光地化されてしまっているようで、死んだ人たちのことを思うと、ちょっと……。

イシ: そうだね。
 白虎隊の悲劇だけが有名になっているけれど、それより前に、二本松藩でも同じような少年兵の悲劇が起きているんだよ。そっちのほうはあまり知られていないだろう。

凡太: 二本松ですか。知りません。

二本松藩の悲劇

イシ: 二本松藩は当時10万石で、会津藩、白河藩、福島藩と同程度の石高の藩。白河藩主の阿部正外が兵庫開港問題で幕府老中を解任させられ、謹慎、棚倉藩への藩替えを命じられたため、藩主がいなくなる白河城の管理と警備も担当していた。
 白河城は西軍の下参謀・世良修蔵の命令で西軍の管理下になって、城には、会津征討を名目にした二本松、仙台、棚倉、三春の各藩が入っていた。でも、東北諸藩は会津を本気で討つ気がない。4月19日に世良が仙台藩に斬首されたという報が入ると、翌4月20日未明には二本松藩以外の各藩は退去して、入れ替わりに招き入れられるように会津藩兵が白河城に入った。会津にとって、白河は西軍の進撃を止めるための最重要拠点だからね。

 5月23日、二本松藩は家老・丹羽富穀の主導で白石盟約に署名し、列藩同盟に加わった。白河城には会津藩、仙台藩、棚倉藩の2300名の軍勢が入ることになって、二本松藩兵は一旦は自藩に引き上げたんだけれど、その後、また西軍が白河城を奪取したため、会津藩の要請に応える形で二本松藩は再び主力部隊を派遣。二本松城はほとんど留守番の老人や農民中心の予備兵だけになってしまっていた。
 そこで、守備固めのために少年兵を募集した。志願した60数名のうち、最年少は数えで12歳というから、満年齢では11歳か10歳。今なら小学4、5年生だ。
 少年兵たちを預けられたのは砲兵隊隊長の木村銃太郎という青年で、このとき数え22歳。数学が得意で、江戸で砲術を学んだ後に帰藩していたが、なにせ仕える大砲が旧式で、西軍の新式の大砲とは比べものにならない。負傷した後、副隊長に首を切り落とさせて果てた。
 残された少年兵たちは、木村隊長の首を、髪を左右に分けて二人で持ち上げて城まで持って退却した。
 生き残った少年たちは、傷を負いながらも城の周辺を徘徊し、刀一本で西軍兵士に特攻をかけて殺されている。

 二本松の戦いはあっという間に決着がついた。武器の差が決定的要因だが、隣の三春藩、守山藩が戦わずして開城したことも大きかった。
 話が前後するけれど、白河口の戦い以降の経過をまとめてみよう。
西軍の進路概略図(Wikiより)

凡太: 主力部隊が会津救援のために出払っていて、北上してくる西軍との間にいる三春藩、守山藩は戦わずに恭順してしまったとなると、二本松藩は完全に無力ですよね。

イシ: そういうことだね。きみが藩主だったらどうする?

凡太: ぼくだったらすぐに降伏します。勝ち目はまったくないですから。

イシ: しかし、そこが武家教育が浸透している生真面目な藩の悲しさというか、二本松藩は家老・丹羽富穀の「死を賭して信義を守るは武士の本懐」という一言で、藩ごと討ち死にする道を選んだんだ。そこに少年兵たちも巻き込まれたということだね。

 二本松側は三春藩が裏切ったとして、長い間、二本松と三春の間での婚姻は困難だったというよ。

凡太: 会津と長州だけじゃなかったんですね。同じ東北のお隣さん同士がそんなことになるなんて……。

裏切り・離反の連鎖と庄内藩の孤軍奮闘

イシ: ここからはもう将棋倒しのように東軍が倒れていく。
 西軍の何がなんでも東北を制圧するという勢いに対して、列藩同盟軍は足並みが揃わないし、やることが全部中途半端なんだ。
 特にひどいのは、仙台で軟禁していた奥羽鎮撫総督・九条の「この状況を報告して話をまとめるために、秋田にいる副総督と合流して上京したい」という訴えを認め、秋田行きを許してしまったことだ。
 そのとき秋田にはすでに長州の参謀・桂太郎が入っていて、秋田藩(久保田藩)を「今からでも官軍に入れ」と説得して成功していた。そのため、九条を連れ戻そうと仙台から秋田に入った10人ほどの交渉団はことごとく殺されてしまう。こうして、秋田藩は列藩同盟を抜けて、西軍の拠点となった。

桂太郎(1848-1913)

長州藩士。20歳で奥羽鎮撫副総督澤為量の参謀添役・第二大隊司令参謀として東北戊辰戦争に参戦するも庄内軍の前に連戦連敗し、一時は自殺も考える。しかし、秋田藩を説得して西軍に寝返らせることに成功した。
明治3(1870)年に帝政ドイツに留学。その後は第11代、13代、15代内閣総理大臣、台湾総督、陸軍大臣、内務大臣、文部大臣、大蔵大臣、貴族院議員、内大臣、外務大臣などを歴任。通算首相在職日数は2886日は安倍晋三に次ぐ歴代2位。大正2(1913)年、第3次内閣のときに第一次護憲運動を受けて退陣し、同年に満65歳で病没。

 同盟軍は、秋田藩に寝返られただけでなく、九条という大切な人質をみすみす手放してしまい、交渉の材料を失ってしまったわけだ。
 これを見て、新庄藩・本荘藩・亀田藩・矢島藩も雪崩をうつように西軍に恭順。孤立した庄内藩は、兵を南方向だけでなく、西軍に寝返った諸藩を抑えるために北にも向けなければならなくなった。
 しかし、庄内藩は強いんだよ。というのも、庄内には「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われた大庄屋の本間家がいて、70万両というとてつもない大金を寄進し、シュネル兄弟らから最新式の兵器を豊富に仕入れていたからだ。
 二本松藩の年間予算が7万両だったそうだから、その10倍の金額をポンと軍資金として献上しているわけだ。
 さらには庄内藩二番大隊・大隊長の酒井了恒(のりつね)玄蕃(げんば)という、戦にめっぽう強い名将がいた。西軍からは「鬼鬼玄蕃」と呼ばれて怖れられた。
 西軍に寝返った各藩は、鬼玄蕃率いる庄内軍にはまったく歯が立たなかった。
 庄内藩・仙台藩の軍勢は7月14日には新庄城を攻め落とし、連戦連勝の勢いで、秋田藩領、矢島藩領、本荘藩領を次々と制圧。これを見て、総督府に自領を放棄された亀田藩は、庄内藩と和議を結んで再度列藩同盟軍に参加した。
 列藩同盟と西軍側のどちらにつくか長く議論がまとまらなかった盛岡藩は、ようやく列藩同盟につくことにして、8月9日に秋田藩領に攻め込み、大館城を攻略した。

酒井了恒 (1843-1876)

庄内藩家老・酒井了明の長男。戊辰戦争では庄内藩二番大隊・大隊長。最新兵器と巧みな戦術で連戦連勝の強さを誇った。兵学だけでなく、漢詩を詠み、書を嗜み、雅楽に通じ、笛の名手でもあった。戦が強いだけでなく、乱取りを禁止し、適量知内では農民に食糧を開放するなど、高潔な人柄ゆえ、敵からも一目置かれた。明治以降は大泉県参事に任命されたが、33歳で病没。
 それでも、会津が落城したと聞くと、庄内藩は矛を収める。周囲の東北諸藩を相手にこれ以上戦うことに意味を見いだせなかったんだろう。久保田城(秋田城)落城寸前まで追い詰められていた秋田藩は命拾いした。

 こうして東北戦争は、各藩がポロポロと降伏していき、終結した。

凡太: 庄内藩は強かったんですね。

イシ: そうだね。最後まで自領に西軍を侵入させなかったからね。優れた武器を持っていたからで、ある意味、本間家の財力の勝利ともいえるかな。

 こうして奥羽越列藩同盟は消えてしまったんだけれど、列藩同盟は発足当初から「奥羽越公議府」という政策機関を立ち上げて、23項目にわたる具体的な政策・戦略を立案していた。
 これはほとんど知られていないと思うので、確認しておこうか。主な内容は、

 ……といったもの。白河口の戦いが生命線だという認識や、イギリスを警戒していた様子が窺える。
 また、榎本武揚(えのもとたけあき)らによって上野戦争から逃れて6月6日に会津に入っていた北白川宮能久(きたしらかわのみやよしひさ)親王(寛永寺貫主・日光輪王寺門跡)を同盟の盟主に据えた。
北白川宮能久親王(1847-1895)
伏見宮邦家親王(平成天皇の母方の高祖父)の第9王男子。孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父。公家からは「輪王寺宮様」、武士からは「日光御門主様」、江戸庶民からは「上野宮様」と呼ばれた。
鳥羽・伏見の戦いの後、慶喜からの依頼で駿府城へ行き、東征大総督・有栖川宮熾仁親王に慶喜の助命と東征中止の嘆願を行うも、東征中止は一蹴された。
江戸開城後は熾仁親王が江戸城に招いたが会わず、上野戦争で寛永寺に立て籠もった彰義隊が敗北すると、榎本武揚率いる幕府海軍によって東北に行き、覚王院義観ら側近とともに会津、米沢を経て仙台藩に身を寄せた。その後、白石城にて奥羽越列藩同盟の盟主に擁立される。
東北戦争敗北の後は京都で謹慎の身となり、その後はプロイセンに留学しプロイセン陸軍大学校で軍事を学ぶ。ドイツ帰属の未亡人と婚約するも、明治政府が許可せず帰国命令を受ける。岩倉具視らの説得で婚約を破棄し、京都で再び謹慎。
その後は陸軍の将校に。獨逸学協会初代総裁となり、獨逸学協会学校設立に尽力。大日本農会初代総裁、貴族院皇族議員などを歴任。明治28(1895)年、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征するも現地でマラリアに罹患し死没。没年満48歳。

凡太: 慶喜さんはここでも皇族を通じて助命嘆願していたんですね。

イシ: 慶喜は武家に生まれるべき人ではなかったんだろうね。公家として生まれていたら別の人生があったのかもしれない。岩倉具視あたりと入れ替わっていれば、政権交代も、もっとうまくいったのかな。
 ……なんてことを想像してもしょうがないか。

最後はイギリスがとどめを刺した?

 とにかく、こうして東北戦争は終わった。
 後は榎本武揚率いる旧幕府艦隊が函館に立て籠もった箱館戦争が残っているけれど、もはやこれまで、だね。

榎本武揚(1836-1908)

伊能忠敬の弟子であった幕臣榎本武規(箱田良助)の次男として生まれる。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学。帰国後、幕府海軍の指揮官に。戊辰戦争で、旧幕府海軍艦隊を率いて蝦夷地に向かい、函館政権の総裁となるも、箱館戦争で敗北し、2年半投獄された。黒田清隆らの尽力により助命され、釈放後、明治政府に出仕し、北海道の資源調査、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結。外務大臣、海軍卿、駐清特命全権公使などを歴任。内閣制度開始後も逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣などを歴任。東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会、電気学会など数多くの団体を創設。明治41(1908)年に満72歳で病死。

箱館政権の閣僚。後列左から小杉雅之進、榎本道章(対馬)、林(ただす)、松岡磐吉、前列左から荒井郁之助、榎本武揚 (Wikiより)
ここに写っている全員が捕らえられ投獄された。獄中死した松岡磐吉以外の5人は赦免後、各方面で能力を発揮して明治政府を支えた。

小杉雅之進(1843-1909)

幕臣。長崎海軍伝習所三期生。開陽丸機関長。函館政権では江差奉行並。明治以降は内務省、農商務省商務局、管船局、逓信省管船局、司検官、船舶課長、大阪船舶司検所長などで主に海事行政を担当。退官後は大阪商船の監督部長。明治42(1909)年満55歳没。


榎本道章(1834-1882)

江戸幕府旗本、官名は対馬守。箱館政府では会計奉行。赦免後は北海道開拓使に出仕。


(ただす)(1850-1913)

幕臣。佐倉藩の漢方医の息子として生まれ、横浜に移住後、アメリカ人から英語を学ぶ。幕府選抜の留学生として渡英したが、戊辰戦争で呼び戻される。釈放後は、英語教師、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングの翻訳官、外務省勤務などを経て岩倉使節団の一員に。その後は逓信省大書記官、香川県知事、兵庫県知事などを歴任。榎本武揚が外相に就任すると外務次官として支え、その後も日清戦争の後処理(下関条約)や三国干渉の対応など、外交分野に従事。第2次松方内閣下では駐露公使、駐英公使。第一次日英同盟調印。大正2(1913)年に脳溢血で死去。満63歳。


松岡磐吉(ばんきち)(1841-1871)

幕臣。箱館戦争では軍艦蟠竜丸の艦長。収監され、未決のまま在獄2年を過ごした後、獄中死。


荒井郁之助(1836-1909)

幕臣。航海術、測量術、数学に精通し、幕府軍艦操練所で軍艦操練、測量、洋算を学ぶ。函館政権では海軍奉行。2年半の獄中生活で「英和対訳辞書」を完成。赦免後は榎本らと共に開拓使の役人として北海道へ。北海道の三角測量を行う。内務省地理局配属を経て、初代中央気象台長に就任。明治42(1909)年病死。満73歳。

凡太: 榎本さんは、旧幕府勢力を引き連れて蝦夷地を開拓し、そこに独立国を作ろうとしたんですね。

イシ: 当初はそうだったんだろうね。戊辰戦争で生き残った旧幕府方の武士たちの受け皿というか、食い扶持を確保する必要があった。
 それと、榎本らとしては、本州以南はもう薩長の手に渡ってしまった。しかし、そんな無頼政府に従いたくない。ほぼ未開の地である蝦夷を任せてくれれば、こちらには優秀なメンバーも残っているし、もうこれ以上血を流しながら戦争はしたくないという気持ちもあったんじゃないかな。
 でも、明治新政府はそれを許さない。いつ反撃されるか分からないからね。徹底的に潰さないと安心できない。
 そこでまた出てくるのがイギリスだ。パークスの説得で、幕府が購入したはずの最強軍艦が新政府の手に渡ったからね。しかも、薩長には最新式軍艦を使いこなせる人間がほとんどいなかったから、イギリスの乗組員も送り込んだ。
 後に榎本はアメリカ領事に「我らは、薩長に負けたのではない。イギリスに負けたのだ」と語ったそうだよ。

 結局、榎本らは降伏し、2年半投獄生活を経た後に明治新政府に仕える身になった。過酷な任務である北海道開拓使に四等出仕というところから始まって、その後はロシア帝国との樺太の国境画定交渉や、西欧視察の後、シベリアを横断して帰国。その頃にはオランダ語、ロシア語、ドイツ語、フランス語、英語を自由に使いこなしていたというから、とてつもなく優秀な人だったんだね。
 同じ幕臣で、明治政府への出資を断り、反骨のジャーナリストとして生きた栗本鋤雲は、明治政府に仕えた榎本と再会したとき「よく俺の顔が見られるもんだな」と罵倒したそうだけど、榎本らが処刑されずに生き延びて、多くの功績を残せたことは日本にとってはよかったよ。

 ……とまあ、こんな風にしてできあがったのが明治政府だ。
 結局、暴力と謀略が合理性と知性を蹴散らしたのが幕末の歴史だね。
 馬鹿とサイコパスが作った日本史とでもいうべきかな。

 幕末に諸外国相手に対等に渡り合っていた幕臣たち、その他、諸藩にいた優秀な人材を、水戸、長州、薩摩、土佐などを中心としたテロリストたちが次々に殺したり失職させたりしていき、最後は天皇を利用してクーデターを起こし、私利私欲で新政府を作った。
 その一連の暴力クーデターの中で、多くの庶民が巻き込まれて命を落とし、家を焼かれ、食料や家財を奪われ、婦女子が強姦された。
 家康が目指した「争いのない国」が、ガラガラと崩れて、戦国時代の無秩序状態に戻ってしまった。
 東北戊辰戦争は被害者の少ない内乱だったなんて言う人もいるが、とんでもないよ。一般庶民の死者、負傷者の数はほとんど記録されていない。というか、意識的に記録に残さなかったフシがある。
 実際には、あちこちで焼き払われ、食料や家財、そして働き手を奪われた村々は、明治に入ってからも長い間まともな家も建てられず、農地も荒らされたために飢え死にする人も多かった。
 そうした意味のない戦争を東北に仕掛けた西軍が作った新政府はどういうものだったかというと、幕末に攘夷を叫んでテロを繰り返したような人たちが中心となったわけだから、まともに政治のできる人材が乏しくて、イギリスの傀儡政府のようなものになった。

 こうした恥ずかしい歴史は、ずっと隠されてきた。今もまだ、薩長閥、特に長州閥政治が続いている。派閥政治、金権政治、西側諸国への盲従、世襲政治家の無知蒙昧……明治政府の欠点がなんら改善されずにしっかり残っている。

 次回はそのへんのところをまとめて、このシリーズは一旦休憩に入ろうと思う。

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