「人間史」を見つめ直す(29)

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「まともな維新」を不可能にさせた人たち


イシモリ:  さてと、なかなか戊申クーデターまでたどり着かないね。

凡太: 話が複雑で、なかなか頭に入っていきません。

イシ: そうだよね。じゃあ、ここまで見てきた段階で、ひとつ確認しておこうか。
 学校では、古い因習や保守的な権威主義に凝り固まった幕府が鎖国を続けて日本の近代化を遅らせていたが、それを打破して新しい時代を切り拓いたのが明治維新である……みたいに教えると思うんだけれど、まったく違うよね?
 ここまでのことを見てきただけでも分かるように、開国をして日本を諸外国と肩を並べる海運国にしようとしていたのは幕府で、それをことごとく阻止してきたのが長州をはじめとする世界情勢をまったく理解しない単細胞攘夷テロ勢力だ。
 日本の開国、近代化をスムーズに進めようとした先進的な考えを持つ人材は幕府に集中していた。しかも、老中・阿部正弘に代表されるように、それまでのしきたりや、家柄、権威主義にとらわれず、幕府の外からも優秀な人材を集めて力を結集しようとした人たちもいた。
 それがうまく進んでいれば、戊申クーデターによる無意味な殺戮はなかっただろうし、新政府の陣容ははるかに優れたものになっていたはずだ。でも、そうはならなかった。
 明治「維新」と呼ばれている政権転覆事変を最悪な形に持って行ってしまった元凶というか、困った人物が何人もいたからだね。ここまで見て来た中では、誰が問題だったと思う?

凡太: 徳川斉昭は困った人だったと思います。あの人がいなかったら、将軍継嗣問題も安政の大獄も桜田門外の変も起きなかったんじゃないですか?

イシ: まさにその通りだね。
 井伊直弼が一橋慶喜を将軍にさせたくなかった最大の理由は、斉昭の息子だからだ。慶喜を嫌ったというより、斉昭の息子だけはありえない! という拒絶だね。慶喜は理解力のある頭脳派かもしれないけれど、そもそも本人に将軍になる気持ちがない。責任を負う立場は避けたいというタイプ。そんなのを将軍にしたら、斉昭が大御所として後ろに座り、斉昭のいいようにされる。そうなったら日本は終わりだ、と読み切っていた。
 その判断は正しかったかもしれないけれど、斉昭につながる勢力を排除するやり方がまずすぎた。
 斉昭は1860年9月29日に満60歳で急死しているんだけれど、その前に「安政の大獄(1858年8月~)」、「戊午の密勅(朝廷が幕府に黙って水戸藩に密勅。1858年9月)、「桜田門外の変(1860年3月24日)」……と、その後の政局を大きく狂わせる事件が続いてしまった。

 でも、そもそも孝明天皇が幕府に頑なに攘夷を求め続けたことが、日本の開国を遅れさせ、国内に無用な戦を招いたといえるだろうね。

孝明天皇という最大の障壁

凡太: 確かにそうですね。天皇ということで、悪いようにはいえない雰囲気がありますけど……。

イシ: 孝明天皇の存在が、ありとあらゆる場面でマイナス方向に働いてしまった。それが日本にとって大きな悲劇を生む結果になった。もちろん、天皇自身はそんなつもりはなくて、よかれと思って行動していたわけだけれどね。
 この「孝明天皇問題」というのを、しっかり検証してみよう。

孝明天皇(1831-1867)
在位:弘化3(1846)年-慶応2(1867)年。
太閤・鷹司政通らの開国説得に耳を貸さず、ひたすら鎖国続行を主張した。天皇の在位と元号を一致させる「一世一元」制度前、さらには生涯平安京内で過ごした最後の天皇。

 徳川政権が成立してからずっと、朝廷が直接政治に関わることはなかった。お飾りというと怒られるけれど、今の日本と同じで、天皇は形式的に利用されるだけだった。
 朝廷を政治から切り離すというのは、大御所となった徳川家康が死ぬ前に制定した「禁中並公家諸法度」にはっきりと記されている。
 17条から成っているんだけれど、第1条から「天皇がまずやるべきことは学問である」と定めて、朝廷が幕府の政治に口出しするんじゃないと釘を差している。
 第11条には「公家が、関白・武家伝奏・各奉行の命令に従わない場合は流罪にする」とある。公家の中の上下関係なども細かに規定していて、公家社会の中で勝手な法体系を作れないようにもしている。貴族よりも武家のほうが命令系統では上なんだぞ、と宣言しているわけだね。
 家康の死後も、京都の公家たちはずっとこのルールを守って政治に口出しすることはなかった。
 ところが、天明7(1787)年、孝明天皇の祖父にあたる光格天皇がこれを破って、幕府に天明の大飢饉で困窮している民衆の救済を申し入れた。

凡太: 飢饉で苦しんでいる人たちを助けてくださいってお願いすることも、政治に口を出すことになるんですか?

イシ: うん。そのくらい朝廷は政治からは切り離されていたんだね。

 光格天皇はわずか8歳で天皇になっていて、それからすぐ天明の大火で京都御所が焼失。さらには天明の大飢饉に見舞われるという大変な少年時代を過ごした。
 天明の大飢饉は特に東北の農村で多くの餓死者を出すなど悲惨だったんだけど、京都でも影響は大きくて、もう幕府には頼れないと、京都御所にお参りして事態の好転を祈る「御所千度参り」という現象が起きた。
 最初は数人が始めたことだったのが、あっという間に数万人規模になり、見かねた光格天皇の後見役だった後桜町上皇(光格天皇の2代前の女帝)が3万個のリンゴを、他の公家からもお茶や握り飯を配って対応するという事態になった。

凡太: 民衆にとっては、政治にまったく関わらない天皇のほうが神格化しやすかったんでしょうか。

イシ: そういうことかもしれないね。これは今の日本でもまったく同じだろう?

 毎日御所に数万人の人がやってきて祈る姿を見て、まだ十代だった光格天皇と、天皇の叔父にあたる関白・鷹司輔平は、幕府に民衆救済を申し入れた。
 幕府はすぐに米1500俵を京都市民へ送ることを決定。禁中並公家諸法度を破って朝廷から幕府に政治的な要求をしたことについては、緊急事態に鑑みて不問とした。

凡太: 光格天皇って、民衆のために頑張る、立派な天皇じゃないですか。

イシ: そうだね。そんな光格天皇の孫が孝明天皇で、孝明天皇もまた正義感が強いというか、勝ち気な性格だったんだ。
 でも、それが、幕末史においては悲劇を生むことになる。

 安政5(1858)年、幕府はアメリカ全権大使のタウンゼント・ハリスと交渉の末、日米修好通商条約を結ぶわけだけれど、これには世界情勢に疎い諸侯や攘夷派の武士たちから猛反発を受けた。
 そこで、老中・堀田正睦(まさよし)は、こういうときこそ天皇の威光を利用すればうまくいくと考えてしまった。天皇の命令・許可(勅許)で条約を結んだことにすれば、反対できないだろうと。
堀田正睦(1810-1864)
老中首座・水野忠邦が着手した天保の改革に参画したが、改革失敗を見抜いて老中を辞任。安政の大地震後、老中首座・阿部正弘の推挙で老中復帰。井伊直弼が大老就任後は失脚。蟄居を命ぜられ、蟄居先の佐倉城で死去。

 これが結果的には大失敗だったんだな。孝明天皇が、どんなに説明しても理解しようとしないゴリゴリの外国人嫌いだとは想像していなかった。
 関白の九条尚忠(ひさただ)は、幕府との協調路線を重視して、条約許可を求めたんだけれど、孝明天皇はこれを拒否した。
 和親条約は人道的なものだったからよしとしても、通商条約は絶対に許せないと考えていたんだね。
 自分の代で異国人を国に入れたなどという歴史が残れば末代の恥だ、とまで言っていたそうだよ。

 さらには、公家の中にも幕府に対して恨みを持つ者が、特に中下位の公卿に大勢いて、姉小路公知(あねがこうじきんさと)(正五位下・無官)、岩倉具視(従四位上・侍従)、中山忠能(ただやす)(正二位・権大納言)らが先導して88名の公卿が条約案の撤回を求めて抗議の座り込みを行うという事態になってしまった。
 結局、堀田は勅許を断念して江戸に戻り、責任をとる形で老中辞職に追い込まれ、幕府と朝廷の取次役である関白の九条尚忠も内覧職権を一時停止されてしまった。

凡太: そんなことになるなら、最初から天皇の意向など聞かなければよかったんじゃないですか。

イシ: そうかもしれないね。勅許を求めて拒否されたことが、結果的には火に油を注ぐことになってしまっているからね。

 ここで注目したいのは、座り込みデモを主導した姉小路公知は無官で、位も正五位下という、88人の中でも下から6番目の官位。岩倉具視も下から25番目で、公家の中では下っ端にすぎなかったということ。いちばん官位が上の中山忠能も正二位・権大納言という官位で、従一位・関白の九条尚忠より下だ。
 幕府が朝廷をコントロールできなかっただけでなく、朝廷内でも政治的には最高位である関白が、自分よりずっと下の官位である公家の突き上げに屈してしまい、天皇に意見を伝えることも難しくなってしまった
 孝明天皇が国際情勢に疎いのは仕方がない。宮中という閉ざされた世界にいる人だからね。だから、幕府も朝廷を利用するつもりなら、もっと事前に万全の朝廷工作をしておくべきだった。教育係を派遣するとか……まぁ、それも無理か。諸外国との交渉で手一杯だったからね。

凡太: でも、孝明天皇は幕府を倒したいとは思っていなかったんですよね?

イシ: そう。孝明天皇はあくまでも政治は幕府が中心に行うものだと思っていた。だから、幕府に攘夷をしてほしいと訴えるわけだけど、孝明天皇が求める「攘夷」というのは、単に外国人を日本国内に入れるな、という「異人嫌い」「外国アレルギー」みたいなもので、外国と戦争しろという話ではない。日本から外国人を追い出して、二度と入れるな、みたいなことだった。とにかく考えが幼稚というか、世間知らずすぎるんだ。
 幕府は、そんなことは無理だし、日本を危険な状況に追い込むことだと分かっていた
 となると、幕府としては、なんとか孝明天皇を説得するか、完全に無視して攘夷派を一掃するかしかない。
 井伊直弼は後者を選んだわけだ。無責任に攘夷を叫ぶ勢力は親藩だろうが公家だろうが力尽くで排除する、と。
 しかし井伊は暗殺されてしまい、幕府はますます混乱していく。
 孝明天皇をどう説得するかで、将軍後見職の慶喜、政事総裁職の松平春嶽、参与の山内容堂の意見がなかなかすり合わない。慶喜は自ら上洛して天皇の考えを開国に転じさせると言い、一旦はその方向が決まったものの、朝廷からは「来るに及ばず。延期せよ」と言ってくる。
 すったもんだの末に、孝明天皇には「攘夷をします」と返答しつつ、諸外国には「あれは形式上のことで、実際には開国しますから待っててくださいね」と時間稼ぎをする、優柔不断な軟着陸狙い路線になってしまった。
 一方で、京都では長州を中心にした過激派攘夷勢力と中下位公家が結託して、孝明天皇を無視した偽の勅許を連発する。
 長州勢は攘夷こそ天皇のご意志だとして、天誅テロを繰り返す。天皇はそうしたテロ行為を嫌ってなんとかしたいと思っていたのに、過激攘夷派の中下位公家が、偽の「褒勅」、つまり「よくやった。誉めてつかわす」という天皇からの伝達を出して長州を煽る。
 喜ぶ長州はますますテロ行為を激化させ、天皇の怒りも増す……という地獄の状況になっていった。

凡太: この時点ではまだ薩摩藩は過激攘夷派とは距離を置いているんですか?

イシ: 久光はそうだ。なんとか朝廷に現時点での攘夷は無理だと理解させようとするんだが、うまくいかなかった。
 公家の中でも分裂が続き、薩摩派の岩倉具視は、長州派の三条実美や姉小路公知ら急進派に追い落とされ、一旦身を引いている。
 その後も朝廷内では過激攘夷派が圧倒的な勢力を持つようになって、孝明天皇の意思さえも通らなくなってしまった
 外では、土佐勤王党を率いる武市半平太(瑞山)らが京都に入り、長州の久坂玄瑞ら過激派と結んで「天誅テロ」を繰り返す。
 京都所司代ではとても対応できないということで、会津の松平容保(かたもり)新設された京都守護職という任につかされる。これは完全な貧乏くじで、会津藩の悲劇がここから始まっている。
松平容保(1836-1893)
陸奥国会津藩9代藩主。文久2(1862)年、28歳のときに京都守護職に就任。孝明天皇からの厚い信任を受ける。幕府にも朝廷にも忠実であったために、その板挟みで苦悩した。戊申クーデターで会津が実質上壊滅し、青森の僻地に追いやられた後も、日光東照宮の宮司に任じられるなどして生き延び、57歳で病没。

 文久3(1863)年3月4日(1863年4月21日)、将軍家茂が上洛。孝明天皇はこの時点でも強固に攘夷を主張していて、なんだかんだで幕府は5月10日に攘夷を決行すると約束させられてしまう。
 幕府としては、攘夷といっても武力を使うことはありえないので、諸外国を相手に話し合いを持つという解釈で承諾したんだけど、当然、攘夷派はそんな解釈はしない。
 長州藩は5月10日に馬関海峡(関門海峡)を通過するアメリカ、フランス、オランダの商船を砲撃した。
 当然、報復を受ける。イギリスの呼びかけで、米仏蘭との4国連合艦隊によってボコボコにされた。

 ここでなんとも不思議なのは、長州が外国商船への砲撃を開始した5月10日の2日後に、長州の井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5人をイギリスに密出国させていることだ。
 藩命により留学したということになっているんだけれど、この密出国には駐日イギリス領事やジャーディン・マセソン商会のウィリアム・ケズウィック、そしてあのグラバーらが関わっている。
 すでにイギリスがこの時点で長州への工作を始めていたということだろうね。

凡太: なんだか不気味ですね。

イシ: イギリスは本当に狡猾というか、いろんな布石を打っている。幕府との関係を保ちながら、ライバルのフランスを抑えるために薩長に近づき、そのフランスも含めてオランダやアメリカをも、協力が必要なときには「我々は仲間だ」と言って利用する。

凡太: そんなのを相手にしながら国内のゴタゴタも抑え込まなければいけない幕府が気の毒になります。

イシ: 朝廷や攘夷派集団に対して中途半端な対応を続けた幕府の自業自得ともいえるけれどね。
 まあとにかく、幕府側も朝廷側もグチャグチャになってしまったんだね。

 6月にはアメリカとフランスが下関を報復砲撃する一方で、7月には薩英戦争、8月には公卿・中山忠光率いる尊皇攘夷派が大和国で幕府五條代官所を襲う(天誅組の変)など、ますます混乱していった。

 長州は外国船を砲撃したことで幕府から責められ、他の藩も長州には同調しなかったため孤立する。もはや幕府とは一緒にやれんわ、と開き直って、朝廷主導で武力による攘夷を決行すべきという論に切り替えた。それを提言したのは久留米の真木和泉で、京都にいた桂小五郎(木戸孝允)ら長州の過激派も同調した。
 孝明天皇は朝廷内外の過激派に手を焼き、これを抑えられるのは薩摩の島津久光しかいないと、何度も久光に上洛を促しているんだけれど、薩摩は薩摩で、薩英戦争があったり、藩内で過激攘夷派がいろいろ策動していたりで余裕がない。
 とりあえずは京都守護職に任命された松平容保の会津藩と手を結んで、この難局を持ちこたえようとする。

 そうした極限状況が頂点に達して、孝明天皇がついに悲鳴を上げる。
 自分が知らないうちに偽の勅許がどんどん出され、ついには真木和泉や三条実美ら過激攘夷派公卿らが「大和行幸の詔」というものを勝手に出す。これは、天皇自らが神武天皇陵、春日大社、伊勢神宮を参拝して攘夷祈願を行い、「親政攘夷(天皇の下一丸となって攘夷を決行する)」を進めるというもの。
 天皇である自分の意思を無視して下っ端どもが勝手をやるのをこれ以上黙って見てはいられない。久光はまだ来んのか? 他に、武力で不届き者たちを抑え込める者はいないのか? と、側近に訴えた。

 これが、勤王の気持ちが人一倍強い松平容保の耳に届き、長州に対抗する薩摩と会津が手を結ぶことになる。

 久光が上洛してこない以上、自分たちが長州と過激派公家を黙らせるしかない、ということで、文久3(1863)年8月18日(1863年9月30日)、会津、淀、薩摩の藩兵が門を固めた御所から勅許がくだされた。
 内容は、
 ……というもので、「八月十八日の政変」と呼ばれている。
 これによって、長州藩は御所堺町御門の警備任務を解任されて京都から撤退するしかなくなった。三条実美ら過激派公卿7人が追放された。いわゆる「七卿落ち」というやつだね。
 孝明天皇はこの直後「8月18日以降に発せられた勅命こそ自分の本意である」と明言し、10月には松平容保に直筆の手紙(宸翰(しんかん))と自作の歌を与えた。
 宸翰には「堂上以下、暴論をつらね、不正の処置増長につき、痛心堪え難く、内命を下せしところ、速やかに領掌し、憂患をはらってくれ、朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠、深く感悦の余り、右一箱これを遣わすものなり」と書かれていた。つまり、「朝廷内で暴論を吐き、好きかってする不逞の輩を追っ払ってくれてありがとう。そなたの忠誠心に感激した」と言っているんだね。
 容保は感激してこれを死ぬまで肌身離さず持ち続けたそうだよ。

凡太: 尊皇攘夷といいながら、実際には天皇をノイローゼに追い込むほど苦しめた長州などの過激派がついに裁かれたんですね。

イシ: まあ、ここで終わっていたらまだなんとかなったのかもしれないんだけれどねえ。
 これがますます長州の過激派、具体的には桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞らを刺激した。ちなみに当時、彼らは全員まだ20代だ。
 俺たちは悪くない。天皇をたぶらかした会津と薩摩こそ国賊だ、ぶっ殺す! とエスカレートする。
 一方、長州がいなくなった京都も、簡単には平和が戻らない。天皇の意を汲んだ将軍後見職・慶喜と雄藩大名(松平慶永、山内豊信、伊達宗城、松平容保、島津久光)による「参与会議」という合議制政治を始めてみたものの、全然意見がまとまらない。
 参与会議がうまく機能しなかったのは慶喜の責任が大きいね。天皇に向けて自分がいちばん賢いというパフォーマンスをして他の参与を白けさせたりする癖があったと思う。おかげで参与会議は文久から元治になった直後、たった3か月で崩壊している。

 長州では、かくなる上は京都に乗り込んで、力尽くでも天皇に、自分たちが正しいのだと認めさせようという過激派が勢いを増して、ついには御所を守る諸藩の兵と殺し合いをするという事態にまでなる。
 これが「禁門の変」と呼ばれる、御所を舞台とした武力衝突だけれど、長くなってきたので、禁門の変の話は次回にしよう。

 今日のまとめとしては、「権力の世襲ほど危険なものはない」ということかな。

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