「人間史」を見つめ直す(26)

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幕末日本に関わった外国人たち


イシモリ:  なかなか戊申クーデターまでたどり着かないんだけど、その前に、幕末の日本史に深く関わった外国人たちのことをまとめてみたい。学校の授業では見えてこなかったことが浮かび上がってくると思うから。

凡太: アメリカに関しては、ペリーやハリス、ヒュースケンのことはすでに触れていますよね。

イシ: そうだね。それ以外の重要人物を、来日順にまとめてみよう。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
(1796-1866/日本滞在:1823-1828、1859-1862)
 ……ドイツ人博物学者。オランダ商館医として長崎出島に来て、その後、多数の日本人学者、藩士、官僚らと交流。大量の動植物標本や日本に関する資料をヨーロッパに持ち帰った。

凡太: 「シーボルト事件」で有名な人ですよね。スパイだったとか……。

イシ: 当時、日本に来るためにはオランダから何らかの任務を与えられているはずで、本人も「自分の職務は内情探索官だ」と言っていたそうだ。
 でも、それをもってして、スパイだの危険人物だのと騒ぎ立てるだけでは大人げないというか、バイアスのかかった人物評価だろうね。あれだけ精力的に動植物の標本を持ち帰ったということは、彼は基本的には学者として生きた人だと思うよ。
 シーボルトの人物像を少していねいに見ていこう。

 シーボルトはドイツ人なんだけど、当時の日本は長崎出島でオランダのみと通商していたため、オランダ人だと詐称して入国した。
 シーボルトより前に来日してやはりオランダ商館医を務めたエンゲルベルト・ケンペル(1651-1716)、カール・ツンベルク(1743-1828)と合わせて「出島の三学者」と呼ばれているけれど、ケンペルはドイツ人、ツンベルクはスウェーデン人で、やはりオランダ人だと偽って入国している。
 シーボルトはオランダ商館医として働く傍ら、来日した年の秋には『日本博物誌』を書き上げていた。
 出島の外に鳴滝塾を開設。各地から集まってきた医者や学者に西洋医学などを教えた。門下生に高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、小関三英、伊藤圭介ら。
 特別に長崎の町で診察することも許され、日本人相手に医療行為も行った。その際、貧しい庶民からは治療費を取らなかったそうだよ。当時7歳の日本人少年に日本初の種痘も行っている。
 長崎の商家俵屋の娘・楠本瀧と懇意になり、1827年には娘・楠本イネが生まれている。
 1826年、オランダ商館長に随行して江戸に行き、将軍徳川家斉に謁見。道中、日本の地理、植生、気候などを精力的に調査した。

凡太: スパイとしての仕事というより、学者や医者としての仕事ぶりに見えますね。

イシ: うん。本人の意識がそうだったからだと思うよ。
 で、江戸滞在中にも多くの日本人学者や幕僚、諸侯らと交流している。
 このとき、蝦夷を探検した最上徳内から北方の地図を贈られ、幕府天文方・高橋景保とは最新の世界地図と日本地図を交換した。その日本地図を帰国時に持ち出したことが発覚して、シーボルトは追放され、高橋景保は捕らえられて獄死した。これが有名なシーボルト事件だね。
 高橋は伊能忠敬の日本地図作成プロジェクトを指揮し、忠敬の死後も苦労して地図を完成させて家定に披露した功労者だけに、なんとも理不尽で気の毒すぎる最後だよ。
 1830年、オランダに帰着したときに持ち帰った文献や標本類は、文学的・民族学的コレクション5000点以上、哺乳動物標本200、鳥類900、魚類750、爬虫類170、無脊椎動物標本5000以上、植物2000種、植物標本12000点という膨大な数に上った。日本固有種のカエル「シュレーゲルアオガエル」は、このときシーボルトが持ち帰った標本を受け取ったオランダのライデン博物館長のヘルマン・シュレーゲル(シーボルトと同じドイツ人)の名前がつけられている。

凡太: シュレーゲルアオガエルって、アマガエルが大きくなったような、全身緑色一色のきれいなカエルですよね。日本の固有種だったんですか。それなのにドイツ人の名前がついちゃってるんですね。「シーボルトアオガエル」なら、まだわかりますけど、日本に来たことのないドイツ人の名前かぁ……。

イシ: 歴史の悪戯とでもいうのかねえ。
 で、追放されたシーボルトはその後もずっと日本にまた行けるチャンスを狙っていた。娘も残しているし、日本という独特な文化を持った国のことをもっと知って、「日本学」を完成させたかったんだろうね。
 ペリーが条約締結のために日本に向かうことを知って、自分も連れて行ってくれと直談判している。しかし、軍人のペリーからは「おまえはロシアのスパイじゃないのか?」なんて、あらぬ疑いをかけられて拒否されてしまった。
 その後、1858年に日蘭修好通商条約が結ばれたことでシーボルトに対する追放令も解除されると、翌1859年にはさっそくオランダ貿易会社顧問として再来日した。ただ、この頃は、1861年に米国公使ハリスの秘書だったヒュースケンが殺害されたりして、日本では攘夷テロが吹き荒れていた。そうした混乱に対処する目的で、1861年、幕府の対外交渉顧問として雇われたんだけど、その後、政情がどんどん混乱していって解任された。
 息子のアレクサンダーはイギリス公使オールコックを通じてイギリス公使館の職員になっている。
 1862年5月、多数の収集品を持って長崎から帰国した。

凡太: 日本に対する興味の持ち方がすごいですね。そこまで日本という国に入れ込めるのか、って驚いてしまいます。

イシ:  とてつもなく優秀な人だったことは間違いないね。
 シーボルトは攘夷を口実としたテロに対して「外国人を殺害する行為は民族的な嫌悪や復讐心からではなく、大君(将軍)の政府と海軍大国との条約による友好関係を混乱、悪化させる目的からだろう」という見解を日記に記している。倒幕を目的としたテロだということをしっかり見抜いていたんだ。学者としてだけでなく、今なら国際政治学者みたいな分野でも活躍できただろうね。

 次はロシアのプチャーチンという人を見ていこう。
エフィム・プチャーチン
(1803-1883/日本への初来航は1853年8月)
 ……ロシアの海軍軍人、教育大臣。日露和親条約、修好通商条約を結んだ。


イシ: ロシアは1792年と1804年の2回、正式に使節を長崎へ派遣している。ペリーの浦賀来航より半世紀も前だね。しかし、そのときは「うちは鎖国しているからダメ」と、2回とも拒否されている。
 1852年、プチャーチンは遣日全権使節として日本に向けて出航するんだけれど、ロシアとしてはこれが3度目の正直だったわけだ。その際、皇帝ニコライ1世からは「平和的に交渉すること」と命じられている。
 シーボルトとの交流があり、シーボルトからも、ペリーのように強行的な態度を見せぬようにとアドバイスされて、江戸ではなく長崎に向かい、1853年8月22日に長崎に来航。ペリーより1か月早く出航したのに、日本にはペリーのほうがひと月半早く着いて、先を越された形になってしまった。
 長崎奉行の大沢安宅に国書を渡して江戸から幕府の全権代表が来るのを待っていたんだけれど、延々待たされた挙げ句、ロシア本国から「イギリス・フランスと戦争になるかもしれない」と知らせが入る。それを悟られぬよう、「船の修理とかがあるから一旦日本を離れるよ。その間、他の国と交渉がまとまったら、うちとも同じ条件で条約を締結してくださいね」と幕府に通告して、上海へ向かう。
 上海に着くと、本国ロシアがオスマン帝国と戦争を始めたというショッキングな知らせが入る。しかも、犬猿の仲のはずのイギリスとフランスがオスマン帝国に肩入れしているらしい。下手をすると航路をふさがれてロシアにも戻れなくなるかもしれないという大ピンチ。
 そこで、覚悟を決めて、新しい船に乗り換えて日本に戻って交渉を続けることにした。今度は幕府から「長崎は遠いから下田に来い」と言われて、長崎ではなく、下田に来航した。
 プチャーチンも大変だったけど、このときは幕府も将軍継嗣問題とかペリーとの交渉をどうするかとかで余裕がなかったんだよね。
 ところが、下田に着いた途端、安政東海地震が起きて、下田の町は壊滅状態。乗り替えたばかりの自分の船も損傷して航行不能になった上、乗組員の何人かも負傷してしまった。
 そんな状況だったのに、プチャーチンは幕府に対して「下田の町を救うために何か手伝えることはないですか。うちの船には医者もいますし、無傷の乗組員もいるからなんでも手伝いますよ」と申し出た。
 こうして「プチャーチン救助隊」は実際に下田の庶民の治療や被災復旧の手伝いをしている。

凡太: プチャーチンって、滅茶苦茶いい人じゃないですか。

イシ: まあ、穿った見方をすれば、乗ってきた船は大破し、本国ロシアは戦争を始めて大変な状況だし、日本に来てしまった以上、なんとか幕府の信用を得て交渉までこぎ着けるしかないという思いからかもしれないけれど、そうだとしても外交官としての判断としては満点だよね。
 そうした行動に幕府も好印象を持ったのか、1855年2月に日露和親条約締結。その後、追加条約を経て、1858年には日露修好通商条約も締結された。
 このときにプチャーチンと交渉を行った幕府側の最高責任者だった川路聖謨のことを、プチャーチンや、同行していたロシアの文豪・ゴンチャロフは大変高く評価している。
●イワン・ゴンチャロフ
(1812-1891)
 ……小説『オブローモフ』などで知られるロシアの作家。プチャーチンの秘書として随行し、1853年に長崎に来航。

 交渉はうまく進んだんだけれど、乗ってきた船は修理のために戸田港に向かうも耐えきれずに沈没。プチャーチンは幕府に代わりの船を造らせてほしいと申し出て許可された。幕府としても、当時の洋式艦船の造り方を学べる絶好のチャンスだったからね。
 沈没する前に持ち出せた荷物の中に船の設計図があったため、それを戸田村の船大工に渡して作ってもらったところ、りっぱな西洋式の船が完成。プチャーチンは感激して「ヘダ号」と命名している。
 そのヘダ号に乗って一行は無事帰国した。
 帰国後も日本からの留学生に便宜を図ったり、ロシアに日本公使館ができたときにもいろいろ動いてくれたりしている。そうしたこともあって、明治政府はプチャーチンに勲一等旭日大綬章を贈っている。外国人に贈られた第1号だ。
 プチャーチンの死後も、娘のオーリガが戸田村に100ルーブルを寄付したりしていて、最後まで親日家で通した人だった。

凡太: やっぱりいい人だったんじゃないですか。

イシ: そうだね。少なくとも戊申クーデター前の時期には、ロシアとオランダは日本に敵意を持っていなかった。日本が清国のようにボロボロにされて、イギリスのいいようにされるのは困る。うまく開国させて、その後も友好的につき合って、いい商売相手になってほしいと思っていたんじゃないかな。
 オランダ商館長からは幕府にペリーの来航前に、アメリカの艦隊が日本に開国を求めるためにやって来ますよ、という情報を与えているし、日本は急いで洋式艦船を所有して海軍力を上げなければならないと忠告もしている。
 船だけあってもダメで、それを動かす技術を持った海軍士官を養成しなさいとも忠告された幕府は、長崎に海軍伝習所を作った。そこでオランダ海軍のカッテンディーケに鍛えられたのが勝海舟と榎本武揚だね。

●ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ
(1816-1866/日本滞在:1857-1859)
 ……幕府が開いた長崎海軍伝習所の二代目教官に就任し、勝海舟、榎本武揚らに航海術・砲術・測量術など近代海軍教育を叩き込んだ

 オランダはそれまで独占的に日本との通商を認められていたから、なんとか幕府との関係を強く維持したまま、開国後の日本においても優位に立ちたいと考えたはずだ。

 国によってそれぞれ思惑の違いはあるものの、日本に来た諸外国の外交官たちは、日本の近代化を進められるのは幕府しかいないと見抜いていたと思うよ。
 ただ、幕府も国内問題への対応に手一杯で、宮中工作や将軍継嗣問題なんていうものも抱えてしまい、対応しきれなかった。
 ゴンチャロフは、日本の素晴らしさについて賞賛しつつも、最後にこんなことも書き残している。
「日本を滅ぼすものがあるとすれば『裏切り』だけだ。何者かが日本の内乱に火をつけ、封建領主たちを首都に対して造反させることに成功すれば、そのときこそ日本は危機に陥るだろう」
 ……まさにその予言通りに進んでしまうんだよね。

凡太: アメリカのハリスも幕府を倒そうという考えはなかったですよね? ロシアやオランダにもそうした意図がなかったとするなら、幕府を倒すために動いていたのは、やはりイギリスですか?

イシ: それも複雑なんだよね。

 幕末の日本に大きな影響を与えたイギリス人というと、オールコックとパークスだね。

ラザフォード・オールコック
(1809-1897/駐日大使期間:1859-1865)
 ……医師から外交官に転身。清国駐在領事などを経て初代駐日総領事に。在任期間は数々の攘夷テロが起きていた時期で、自身も襲われている。四国艦隊下関砲撃では主導的役割を果たすが、強攻策をとりたくなかったイギリス本国から解任させられ、帰国。


 まず、オールコックだけれど、彼はアヘン戦争後の清国で各地の州領事を歴任し、市場開拓のため清との再戦論を唱え、第二次アヘン戦争(アロー戦争)の引き金も引いている強硬派だ。
 日本に来てからも「世界の盟主イギリス」という意識で、他の国の領事たちよりずっと強気な姿勢を貫いている。
 一方で、若いときに彫刻家のアトリエに通って手ほどきを受けているそうで、文化人としての一面も持っていた。
 日本の芸術や工芸品に対する賛美を惜しまず、日本の風土を愛し、攘夷テロが吹き荒れる時代なのに日本各地を私的に観光旅行して、幕府を心配させている。
 初めて富士山に登った外国人としても有名だね。山頂ではイギリス国旗を掲げて祝砲代わりにピストルをぶっ放したりしている。
 オールコックは確かに強硬派で、ハリスのような穏健路線ではなかったけれど、それに対してイギリス本国はむしろ諫めているくらいだから、この時点ではイギリスは日本を力尽くで従わせようという意図はなかった
 19世紀以降の戦争というのは「ビジネス」の手段であって、結果として儲かればいい。武力を使うことで赤字になるのは馬鹿げているという考え方を、すでにイギリスをはじめ欧米列強は持っていた。そういうことも分からず、ただただ攘夷だなんだと騒いでいた武士がいっぱいいた日本とは大違いだね。

ハリー・スミス・パークス
(1828-1885/駐日大使:1865-1883)
 ……駐日総領事を解任させられたオールコックの後を引き継いで駐日大使に。


 パークスは戊申クーデターの前後に渡って駐日イギリス大使を務めているので、幕末の外国人公使の中では最重要人物といえるね。
 オールコックの部下だったこともあるパークスは、やはり強硬な姿勢で幕府だけでなく朝廷にも向き合い、結果としては薩長を手玉にとるような見事な手腕で倒幕の黒幕として動いている
 どのように動いたかは、幕末史のいちばんのポイントだから、回を改めて確認していこう。


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