幕末史の重要人物まとめ
イシモリ: ここまで、かなりいろんな人物が出てきて、名前を覚えるだけでも大変だったよね。
ここで幕末史に登場する主な人物を整理しておこうか。
ペリーが来航したのが1853年。まずは当時の天皇と将軍から。
- 孝明天皇(1831-1867/在位:1846-1867) ……攘夷一辺倒だったが、在位21年、満35歳で崩御。他殺説も有力。
- 徳川家定(1824-1858/在職:1853-1858) ……ペリー来航の19日後に第13代将軍となったが、病弱で、将軍就任以後はさらに悪化し、国政には事実上タッチしていない。
- 徳川家茂(1846-1866/在職:1859-1866) ……第14代将軍。満20歳没。ほとんど政治的指導権は持たず、時代に翻弄されたまま、3度目の上洛から江戸に戻れぬまま病死。
- 徳川慶喜(1837-1913/在職:1867-1868) ……第15代将軍。将軍後見職に就いたのは1862年、24歳のとき。将軍就任後わずか1年で大政奉還。江戸城無血開城に。
孝明天皇は世界情勢も分からず、攘夷一辺倒だったが、当時の将軍・家定、家茂は事実上政治には関わっていない。
ということで、将軍に代わって幕政を動かしていた老中たちをまとめると、
- 阿部正弘(1819-1857/老中在職:1843-1857) ……ペリー来航時の老中首座。バランス感覚を大事にし、薩摩の島津斉彬や水戸の徳川斉昭らなどの有力大名からも意見を求めた。適材適所を遂行するため、筒井政憲、戸田氏栄、松平近直、川路聖謨、井上清直、水野忠徳、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震など、能力重視での人材登用も行ったが、1857年、36歳の若さで急死。
- 松平忠固(忠優)(1812-1859/老中在職:1848-1855、1857) ……信濃国上田藩6代藩主。日米和親条約、日米修好通商条約締結時の老中。反対派を退けて調印を断行した。老中就任前の奏者番・寺社奉行兼任時代には、老中・水野忠邦の蘭学者弾圧を批判。老中就任後は上田藩で大砲を製造する許可を取り、鋳造。二度目のペリー来航時にそのうち4門が江戸に運ばれ、実弾演習が行われた。ペリー来航後、老中首座・阿部正弘が諸大名や朝廷からも意見を求めたことに対し、幕府の権威を落とすだけだとして反対。徳川斉昭を海防参与にしたことにはさらに猛反対した。しかし、阿部は斉昭の強圧姿勢に押しきられ、忠固と、忠固に同調する老中・松平乗全(三河国西尾藩藩主)を罷免。その後、阿部正弘が急死したため、開国派の堀田正睦によって再び老中に復帰。日米修好通商条約の調印に際しては、勅許がなければ調印できないとする井伊直弼、堀田正睦を論破し、無勅許で条約を締結した。その際、老中、若年寄、三奉行、海防掛ら幕府内の要職はほぼ全員が忠固に賛成した。これにより井伊から深い恨みを買う。安政6(1859)年9月に急死。暗殺説もある。没年満47歳。
- 堀田正睦(1810-1864/老中在職:1837-1843、1855-1858) ……1837年に老中になり、当時の老中首座・水野忠邦が行った天保の改革に参画するが、改革の失敗を見抜き、自ら辞職。1855年に老中首座・阿部正弘の推挙で再び老中に就任。当初は南紀派寄りだったが、朝廷を説き伏せて開国させるには慶喜を将軍にして福井藩主・松平慶永を大老にするのがよいという考えを持っていた。ハリスとの間に締結された日米修好通商条約では朝廷の勅許をもらいに上洛するが拒否され、その間、井伊直弼が大老に就任し、発言力を失った。
- 井伊直弼(1815-1860/大老在職:1858-1860) ……政策そのものは理に適ったものだったが、水戸の徳川斉昭を潰すために焦って一橋派一掃を図り、テロにより殺された。
こうして見ていくと、阿部、堀田、井伊の3人とも、能力はあったし、政策も間違っていなかったのに、将軍後継者問題や水戸藩の暴走によって幕政がうまく機能しなくなっていったことが分かるね。
言い換えれば、
幕末においてもっとも先進的で現実的な政策を描いていたのは徳川斉昭を除く有力幕臣たちだったんだ。
特に阿部正弘は、親藩、譜代、外様に関係なく、能力のある大名には幕政に参加してもらおうという先進的な考えを持っていた。
当時、幕府に積極的に意見を述べていたのは「幕末の四賢侯」とも呼ばれる4人の大名。
- 島津斉彬(1809-1858) ……薩摩藩主。お家騒動があって藩主になったのは1851年、42歳のとき。洋式船、反射炉、溶鉱炉の建造など藩の富国強兵に努め、攘夷が無理であることを早くから悟っていた。自らアルファベットを学ぶなど、西洋の学問、技術習得が必須と考えていた。一番必要とされた局面で病死(満49歳)。異母弟・島津久光の一派による毒殺説もある。
- 山内容堂(1827-1872) ……土佐藩主。武力を使わずに公武合体の新政治体制を望んでいたが、藩内の強硬派を抑えきれず、参謀役の吉田東洋も暗殺されてしまった。
- 松平慶永(春嶽)(1828-1890) ……福井藩主。当初は攘夷派だったが、阿部正弘や家臣の橋本左内らに説得されて開国派に転じた。将軍後継問題では慶喜を推し、井伊直弼と激しく対立した。井伊が大老となって後、右腕だった橋本左内を斬首刑にされて失う。
- 伊達宗城(1818-1892) ……宇和島藩主。アーネスト・サトウら、外国人との交流もあった開国派で、日本は天皇を中心とした連邦国家にするのがいいという考えを持っていた。
これら「四賢侯」に共通しているのは、
攘夷ではなく、開国して諸外国の技術や学問を取り入れつつ、天皇家と武家が協力して合議制による政府を作るべきだという「公武合体」政策だ。
将軍継嗣問題では4人全員が一橋慶喜を推したが、これほどの国難を乗りきるためには、誰もが認める俊英を将軍に据えなければまとまらない、という単純明快な理由からだ。
こうした開国派というより「開明派」とでも呼ぶべき諸侯が、阿部正弘のようなバランス感覚を持った老中首座と協力して新政府を作っていけたらどれほどよかったことか。戊申クーデターのような馬鹿げた内戦は防げたはずだ。
しかし、島津斉彬にしても山内容堂にしても、藩内過激派の突き上げやお家騒動に悩まされていたのが痛かった。
松平春嶽は橋本左内という極めて有能な家臣を井伊大老の乱心によって殺されてしまった。
優秀な人材はほとんど明治前に消された
凡太: 橋本左内という人はそんなに優秀だったんですか?
イシ: 誰もが認める天才だったそうだよ。
左内は、聡明な慶喜を将軍にして、幕藩体制を維持したまま、西洋の技術を導入して列強に対抗していくという構想を持っていた。外交ではロシアと手を結び、イギリスを筆頭とする欧米列強に対抗するという具体案も出していた。
そのための新体制としては、
- 将軍:一橋慶喜
- 国内政治担当:松平春嶽(福井藩)・徳川斉昭(水戸藩)・島津斉彬(薩摩藩)
- 外国事務担当:鍋島斉正(佐賀藩)
- その他官僚:川路聖謨(幕臣)、永井尚志(幕臣)、岩瀬忠震(幕臣)
……という組閣案も持っていた。彼は新生日本にとってどうしても必要な人材だったんだけれど、井伊直弼のおかげで25歳の若さで斬首されてしまった。最後は悔し泣きしていたそうだよ。
左内が構想していたような新政府体制ができていたら、その後の日本史は大きく変わっていただろうね。
上田藩の
赤松小三郎も忘れてはいけない。オランダ・イギリスの軍人から西洋兵学、語学を学び、『英国歩兵練法』を翻訳・出版した。春嶽、久光、幕府に、公武合体路線での開国、普通選挙、議会制による政府の成立や富国強兵政策を建白。薩摩藩に兵学指南役として招かれ、京都の薩摩藩邸で藩の垣根を越えて洋学を教えたんだが、西郷や大久保が武力倒幕に切り替えたために薩摩により暗殺されてしまった。まだ36歳だった。
他にも不遇だった逸材はたくさんいる。特に幕臣は優秀な人材の宝庫だった。
- 岩瀬忠震(1818-1861) ……幕臣。アメリカ総領事タウンゼント・ハリスやロシアのプチャーチンと交渉して通商条約を締結。井伊直弼による一橋派一掃により蟄居させられ、42歳で失意のまま病死。
- 川路聖謨(1801-1868) ……幕臣。ペリー来航前から蝦夷地に迫ってきていたロシアの脅威に備えるため函館に五稜郭を建設。長崎でロシア公使プチャーチンとの折衝を担当。このときの川路の洒脱さえまじえた聡明な対応にはプチャーチン以下、秘書官として同伴していたゴンチャロフ(『オプローモフ』などの作者として知られる文豪)らも感嘆して、「彼は様々な手法で私たちに反論してきたが、それでもこの人物を尊敬しないわけにはいかなかった」「ヨーロッパ社交界に出ても、川路なら一流の人物として通用する」など、最上級の賛辞を書き残している。江戸城無血開城の後、ピストル自殺。
- 水野忠徳(1810-1868) ……幕臣。幕府海軍設立に貢献。金銀の内外価格差に気づき、安政二朱銀を発行して流出を防ごうとしたが諸外国外交官の抗議によって挫折。鳥羽伏見の戦い勃発時には抗戦を主張し、慶喜によって退けられ、その後すぐに憤死。
- 小栗忠順(1827-1868) ……幕臣。日米修好通商条約批准のため米艦に乗って渡米し、地球を一周して帰国。その後は幕府の財政再建、フランス公使レオン・ロッシュに依頼して洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行った。戊申クーデターの際には、薩長軍を殲滅させる具体的な戦略を慶喜に上申したが却下され、「将軍に薩長と戦う意思がない以上、大義名分のない戦いはしない」と上野国群馬郡権田村(現・高崎市倉渕町)への土着願書を提出して村に到着したが、その後、高崎藩・安中藩・吉井藩の兵に捕らえられ、取り調べもされぬまま斬首された。満41歳没。
- 永井尚志(1816-1891) ……幕臣。長崎海軍伝習所所長。長崎製鉄所の創設に尽力。軍艦奉行。外国奉行として岩瀬忠震と共にロシア、イギリス、フランスとの通商条約を調印。しかし、井伊直弼による一橋派一掃により失脚。戊申クーデターでは箱館戦争まで戦い、降伏。
- 阿部正外(1828-1887) ……白河藩主・老中。大老となった井伊直弼に重用され、和宮の江戸下向を朝廷と工作。直弼暗殺後も朝廷工作や生麦事件の対応にあたる。1865年、英仏蘭から催促されていた神戸開港を無勅許で決めたとして慶喜から老中解任・謹慎処分を命じられる。その後、新政府軍が東北まで攻め上ってきた際は、棚倉城にいた年寄りや女子を連れて脱出後、降伏。
左上から右下へ:岩瀬忠震、阿部正弘、伊達宗城、山内容堂、阿部正外
永井尚志、島津斉彬、松平春嶽(慶永)、川路聖謨、水野忠徳
他にも有能な幕臣は多数いただろうけれど、クーデター前までに優秀な人材の多くは死んでしまった。
阿部正外、永井尚志のように、クーデター後も生き延びた者もいたけれど、要職からは外れ、新政府の中心で活躍することはなかった。
凡太: 幕府の優秀な人材は明治新政府には入れなかったんですね。
イシ: そういうことだね。
もっとはっきり言えば、明治新政府の主要メンバーの多くはテロリスト集団出身者だよ。
それについてはこれから詳しく見ていくことにしよう。