「人間史」を見つめ直す(13)

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徳川政権創生期を支えた裏方たち


イシモリ: 江戸の徳川政権は、最初から考え抜かれたシステムを作り上げていた。
 目立つのは、諸大名に二度と内乱を起こさせないという強い意思だね。
 参勤交代という一種の人質制度は有名だけれど、謀反を感じさせる大名には即座に改易を命じ、力を蓄えさせない。
 それは大名だけでなく朝廷にも向けられ、朝廷を完全に政治の場から隔離した。
 そうした政治手法が専制的、独善的だとして批判もされるけれど、結果としては250年以上に渡って大きな内乱がない時代が訪れた。あの時代、対外戦争も大きな内乱もないというのは、世界史の中でも極めて稀な例だ。

凡太: 家康はすごい、ってことですね。

イシ: 家康はすごい……確かにそうだけれど、家康一人の力では、強固な徳川政権はなかなか築けなかったと思うよ。優秀な参謀役や、実務に長けた部下たちがいたからできたことだね。

凡太: 家康には生涯忠信を誓った「徳川四天王」という三河出身の家臣団がいたそうですね。

イシ: 酒井忠次、井伊直政、本多忠勝、榊原康政だね。
 でも、彼らはどちらかというと武闘派というか、(いくさ)のスペシャリストで、徳川政権成立後の政治システム構築に力を発揮したという感じではない。
 本多正信という頭脳派の家臣もいたけれど、彼は三河で一向一揆が起きたときに一向一揆側に味方して家康を裏切る形になった。その後、許されて家康の(もと)に戻るんだけれど、そういうこともあって徳川四天王からは裏切り者として嫌われていた。
 だけど、正信を許して、再び重用した家康の才覚がすごいと思うよ。正信もそれに応えて、朝廷との間でもフィクサー役となって、家康が将軍職に就けるように工作したり、江戸に徳川政権が確立した後、家康が大御所になってからも多方面で政治手腕を発揮している。

凡太: 本多正信は頭脳派だったんですね。だからゴリゴリの体育会系四天王からは嫌われたんだ。

天海とは何者だったのか?

イシ: 正信以上に初期の徳川政権で参謀役として活躍したのが天海だね。あの、明智光秀が実は死んでなくて、天海として徳川を支えたとか、いろんな伝説の持ち主。まさに謎の人物。

凡太: 天海の正体は光秀だったというのは嘘なんでしょう?

イシ: どうなんだろうねえ。私は100パーセント嘘だとは言いきれないという立場だけれどね。結局、「分からない」ことの一つだけれど、なかなか楽しめるよね、「天海=光秀説」は。

 天海=光秀説の根拠とされているものをいくつかまとめてみると、
凡太: 面白いですねえ。でも、やっぱりどれも作り話に聞こえます。

イシ: まあ、年齢からして天海=光秀説はかなり無理があるとは思うけれど、天海の出自が不明な以上、明智となんらかの関係があったという可能性までは否定できないかな。光秀の隠し子だったとかなら面白いけれど、たとえ血縁がなくても、光秀を尊敬していたとか、そういうことならありえるし。
 ともかく、天海が光秀に似た知恵者だったことは確かだ。
 家康が豊臣家に難癖をつけて大坂の陣の発端を作った「方広寺鐘銘事件」や、朝廷の権力を取り上げた象徴とされる「紫衣事件」なんかも天海が裏で画策したんじゃないかといわれているし、公家諸法度・武家諸法度の制定、田舎だった江戸を日本の中心都市にするための都市設計にも関わっていたといわれている。
 家康が自分の死後の始末を天海に託したことからも、どれだけ信頼されていたかが分かる。
 天海がいなかったら、江戸での徳川政権はあそこまでうまく出発できなかったかもしれない。

凡太: そんなにすごい人だったんですか? そのわりには、歴史の授業ではあまり重要視されていないような……。

イシ: 陰の参謀役というのは地味だからね。分からないことだらけでは教えようがないし。

庶民文化が開花していく江戸時代

イシ: それから、天海については、政治的な参謀役としての力だけではなく、その後の江戸文化の展開についてもかなり影響があったかもしれない。

凡太: どういうことですか?

イシ: 天海はお坊さんだけど、家康の死後、家康の神号を「明神」ではなく「権現」にせよと主張した。
 当時すでに神仏習合はすっかり定着していて、神の名前と仏の名前が合体したり、宗教としては世界的にも不思議なものになっていたんだけれど、比叡山では山岳信仰、神道、天台宗が融合したような「山王神道」という宗教が定着していた。
 山岳信仰だから、物部・ニギハヤヒ系のルーツもあるといえるかな。全国にある日吉神社、山王神社、日枝神社はこの系統の神社だね。
 天海はこの山王信仰をさらに発展させて「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」というものを広めていった。
 その立場から、家康を神として祀る際にも、神号を吉田神道系の「明神」とするべきだと主張した崇伝らを退けて「東照大権現」とした。
 東に照り輝く神様、ってことかな。
 日光東照宮を見れば分かるように、あそこは仏教美術あり、海外からの進物あり、神道系の石造物ありで、なんでもありの博物館みたいになっている。ああいう「なんでもあり」のごちゃ混ぜ精神は、江戸時代の庶民文化にも少なからず影響を与えたかもしれない。

凡太: う~ん、なんかよく分かりません。難しくて……。

イシ: まぁ、いいよ。私の勝手な思いこみ、考えすぎかもしれない。

 でもとにかくね、庶民文化というのは戦争の時代には生まれない。祭りだの芸術だの芸能だのという余裕がないからね。
 徳川の時代になって、ようやく心に余裕が出てきたから、一気に庶民文化が花開いたということはいえるだろう。
 江戸時代以前の文化は公家中心だった。武家が力をつけてくると、一部の武士たちは公家文化に憧れた。文字を学び、教養を身につけようとした。
 でも、その時代はまだまだ庶民は置いてけぼりで、毎日、いかに飯を食っていけるか、命を落とさずに過ごせるかで精一杯だった。
 江戸時代にも、もちろんひどい飢饉なんかはあって大変だったけれど、それでも戦争がないということがどれだけ庶民の心を解放させたか
 そんなことにも想像を及ばせたいね。

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