そして私も石になった(6)


←前へ   目次目次   次へ⇒

創世記に出てくる「神」とは?


 「人間を動かしている、人間以外の(ヽヽヽヽヽ)意志」とはどういう意味なのか。俺はしばらく沈黙していた。
 Nも黙って俺の反応を見ていた。
 Nが話を続けないので、仕方なく俺はこう問い返した。

「人間以外の……というのは、要するに『神』ということか?」

<そうだね。そう呼ぶ者もいる。しかし、神という言葉を使ってしまうと、これから私がいうことを理解しづらくしてしまう恐れがあるだろうね。
 きみは「神」というものをどうイメージしている?>

「俺は一応無宗教のつもりなんだが、世間一般には、神といえばキリスト教の神であったり、アラーの神であったり、八百万神(やおよろずのかみ)であったり、いろいろ違うだろ。同じものじゃない」

<そうだね。イスラム教やキリスト教で教える神と、仏教やキリスト教が日本に入ってくるずっと前に日本で暮らしていた人たちが抱いていた、万物に宿る魂のような神、アニミズムの世界でいう神ではまったく違う。
 話をキリスト教に絞っても、キリスト教徒を自認する人たちの神のとらえ方はまちまちだ。ナザレのイエスを神だという人もいれば、イエスは神の子で、イエスの親であるヤハウェが神だとか、いろいろいる。
 聖書のとらえ方もそう。聖書に書かれていることだけが真実だと主張する宗派もあれば、聖書は複数の人間が書いた伝承や記録や創作であって、一字一句を聖なるものだとするのは正しい信仰心ではないと主張する人もいる>

「あんたはどう考えるんだ。いや、もしかしてあんたが、いや、あんた()が『神』なのか?」

<我々は、多くの人間が抱いている神のイメージにはあまり重ならないだろうね。聖書に出てくる「神」と重なる生物は他にいるんだ>

「生物?」

<そう。『生物』だ。その生物は、我々よりもきみたち人間に近い。有機体としての肉体を持っているからね>

「ということは、その生物とは違って、あんたらは肉体を持っていないのか?」

<おっと、口が滑った。その話は今はまだしないでおこう。とにかく、聖書に出てくる「神」のイメージに近い生物のことをこれから話そうと思う>

「聞きたいねえ、それは」
 俺は前のめりになっていた。

<ではまず、聖書とはどういうものかということを確認しておこう。
 きみは聖書を読んだことがあるかい?>

「ない……に近いな。じっくり読んだことはない。旧約聖書と新約聖書があるとか、なんとかの福音書とか、そういうので構成されているとか、モーゼの十戒とか、アダムとイブとか、ノアの方舟とか、出エジプト記とか、そういうのを断片的に聞いているだけだ」

<ああ、やはりすでに聖書に対する認識がごちゃごちゃだね。まあ、特に日本ではそういう人がほとんどだろう。そのほうが話はしやすいから助かるけれどね。
 まず、今きみが言った旧約聖書と新約聖書だけれど、この2つはまったく違う種類のものだ。
 旧約聖書は紀元前に主にヘブライ語で書かれた文書群だ。古代イスラエル人・ユダヤ人の思想や体験などが様々な表現で記されている。ユダヤ教では旧約聖書だけを正式に聖書としているので「旧約」という言い方もない。
 それに対して、新約聖書は紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちが主にギリシャ語で書いた文書。
 新約、旧約という言い方は2世紀頃からキリスト教徒が使い始めたもので、イエスがこの世に現れる前の神との契約を古い契約、イエス後の契約を新しい契約だという考え方を表している。だから、ユダヤ教徒などにとっては新約、旧約などというのはキリスト教徒が勝手に言い始めたことであって、失礼千万な話なわけだね。
 このまったく違うものを一緒くたに「聖書」と呼んでしまうところに、まず大きな誤解が生まれる。
 というわけで、ここで聖書というのは、紀元前に書かれた聖書、キリスト教でいう旧約聖書のことだ。ここまではいいかな?>

「了解」

<聖書の最初の部分は「創世記」と呼ばれるものだけど、ここに最初に書かれている「神」は複数形なんだ。
 英語の名詞には単数形と複数形があるけど、ヘブライ語の名詞には、一つを表す単数形と、二つを表す「二数形」、そして多数を表す複数形という、三つの形がある。創世記では「神」という言葉は複数形である「エロヒム」と記されている。つまり「神」は複数いるんだよ。だからかつては英訳の聖書にも「Gods」と複数形で書かれていたものがあった>

「それは知らなかったな。キリスト教もユダヤ教も一神教だと思っていたから」

<そうだね。今もそういうことになってる。だから、「神」が複数形名詞で書かれていてはまずいんだよね。それで、いろんな説明がされている。
 例えば、神は人間よりもはるかに尊い存在だから、人間と同じように単数形で表すのは畏れ多い。畏敬の念を込めて複数形にしたのだ、とかね>

「畏敬の念を込めて複数形?」

<うん、おかしいよね。普通に考えれば、複数形にするほうが失礼なことだろう?
 他に、キリスト教会では、三位一体という説明もよくされるね。「父と子と聖霊」というフレーズが、キリスト教会の中では何度も使われる。この「三位一体」を表すために複数形で書いてあるというわけさ。
 でも、聖書の中には三位一体という言葉は出てこない。これは後からキリスト教会の人間が考え出したものだから、当然、聖書の中にはない言葉であり、後世の人間が生み出したアイデアだ。
 今では、英語訳の聖書でも、神を God と単数形で書いているものばかりになった。疑問を生じさせないように改竄したわけだね>

「改竄……」

<そもそも聖書は複数の筆者が書いたものを集めているわけだし、書き写していくうちにどんどん変化していっているから、これがオリジナルだといえるものはない。それでも、複数形で書かれていたものを意図的に単数形にしてしまうのはまずいだろうね。
 で、創世記にはいくつも矛盾がある。第一章では神が「地は、青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」と言って、実際「そうなった」と書いているのに、第二章では「地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった」と書いている。
 第一章では「神々は自分たちのかたちに人を創造した。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造した」と書いているのに、第二章では「土のちりで人をつくり、命の息をその鼻に吹きいれたことで人は生きたものになった」とか「人がひとりでいるのはよくないから、彼のためにふさわしい助手をつくろう」と言って、「人から取ったあばら骨でひとりの女をつくり、人のところへ連れてきた」と書いている。第一章ですでに男と女をつくっているのにね。
 他にもいろいろ辻褄が合わない記述があるんだけれど、これは要するに、第一章を書いた者と第二章を書いた者が違うということだよ。後から別の者が、どんどん書き加えたり、解釈を変更したりしているわけだ。
 創世記は特に分かりやすい。第一章では淡々と「神々はこうした」という行動が並んでいるのに、第二章から第四章までは、突然教条的だったり、性差別を匂わせたり、殺人事件が起きたりと、人間くさい話が続いていく。
 で、続く第五章では、これまた突然雰囲気、というか、趣旨というか、世界そのものがガラリと変わる。
「第五章の冒頭には、神は人をつくったとき、自分たちの姿に似せてつくった。彼らを男と女とにつくり分けて、祝福し、アダムと名づけた」と書いてある。
 つまり、アダムは個人の名前ではなく、「人間」という生物種の名前ととれるね。その後は、「アダムは130歳になったとき、自分の形に似せた男の子を産み、セツと名づけた。アダムはセツを生んだ後、800年生きて、他に男子と女子を産んだ」とある。

「ん? アダムは子どもを産めるのか? 男じゃなかったのか?」

<聖書の創世記第五章にはそう書いてあるね。で、アダムは930歳で死んで、セツは105歳のときにエノスという子を産む。セツはエノスを産んだ後に807年生きて男子と女子を産み、912歳で死んだ……と、延々とそういう記述が続いてる。
 この第五章はとても興味深い内容だけど、起きたこと、やったことを淡々と並べているという点では第一章と似ているね。第二章から第四章まではあまりにも人間くさい物語調なのに対して、第一章と第五章は「こうこうこうだった」という事柄の列挙だ。だからこそ、ある意味信憑性がある>

「信憑性? いやいや、誰それが何百年生きて死んで、その間に子どもができて……という話にすぎないんじゃないのか。どう信じろというのさ」

<まず、第二章から第四章までの物語を一旦全部忘れて考えてみよう。
 二章から四章までに出てくるアダムやイブ、その子どものカインやアベルは、蛇に瞞されてりんごを食べたり、羊を飼ったり農耕をしたり、挙げ句の果てには兄が弟を殺したりと、いろんなことをしている。
 で、第四章の最後には唐突に「アダムはまたイブと関係を持って、イブはセツという男の子を産んだ」と書いている。しかも「自分の子のカインが弟のアベルを殺したので、神はアベルの代わりにセツを授けてくれた」とか、第五章に登場するセツに無理矢理つなげるような、いかにも後付けという感じの内容だ。先入観なしに普通に読めば、第二章から第四章までは、第五章よりも後に、別の世界観を持った人間が書き加えていると気がつくはずなんだけどね。
 それに対して、第五章でいうアダムやセツやエノスについては、何かをしたという記述は一切ない。何年生きて、子供を産んで、死んだという記録が並んでいるだけだ。しかも何百年も生きていたというんだから、羊を飼ったり土を耕したり蛇に瞞されてりんごを食べたりという第二章から第四章までに出てくる「人物」のイメージからはかけ離れすぎている。とても同じものだとは思えない。だから、この章は重視されず、読み飛ばされがちなんだが、実はこれこそが重要なんだよ。
 つまり、第五章に出てくるアダムやセツやエノスといった名前と生存年数と子どもに引き継がれる系譜の記述は、誰それという「個人」の行動記録ではない。生命体のコピーと改造の記録なんだ>

本になりました!

用務員・杜用治さんのノート
カタカムナから量子論、宗教哲学、情報戦争まで、現代社会の謎と真相を楽しみながら考える、まったく新しいタイプの文章エンターテインメント 
用務員・杜用治さんのノート
オンライン決済でご購入
 Amazonで購入でも買えます

Kindle版は⇒こちら(500円)



←前へ   目次目次   次へ⇒

Home森水学園 Home
Facebook   Twitter   LINE


ジャンル分け不能のニュータイプ小説。 精神療法士を副業とする翻訳家アラン・イシコフが、インターナショナルスクール時代の学友たちとの再会や、異端の学者、怪しげなUFO研究家などとの接触を重ねながら現代人類社会の真相に迫っていく……。 2010年に電子版が出版されたものを、紙の本として再編。
  Amazonで購入のページへGo!
  Kindle版は180円!⇒Go!

タヌパックブックス
狛犬、彫刻屋台、未発表小説、ドキュメント……他では決して手に入らない本は⇒こちらで


タヌパックのCDはこちら たくき よしみつの小説
Google
morimizu.org を検索 tanupack.com を検索